小説

『桜の下を駆け抜けて』中江田江(『桜の森の満開の下』)

 いつの間にか、あんなにいたはずの友人達は、誰一人見舞いにやって来なくなった。妻はそれに気付いて泣き喚いた。僕らは孤独になってしまった。
 それでも、きっと、病気が治りさえすれば。
 一縷の望みに掛ける僕へ、けれど主治医は妻の自宅療養を勧めた。
 退院勧告と何ら変わりなかった。
 妻はもう、なおらないのだ。

 言われるがまま退院してからが、本当の地獄だった。
 ちっとも良くなっていないのに自宅療養に切り替えられた理由を、妻は察していたんだろう。ストッパーを失った彼女はいっそう荒れた。
 消化しやすいよう柔らかくした食事はお椀ごと薙ぎ払われた。床に撒けられたご飯を掃除する僕と母の背中に、容赦のない罵倒が降り注いだ。
 傍にいると顔を見るのも嫌だと追い払われた。一人にしておくと、今度は私を捨てる気かと金切り声で呼びつけられた。
 暴力はなかったけれど、それは妻の病み衰えた体力が許さなかっただけだ。彼女に力が残っていたら、僕と母は一度ならず血を見る羽目になったに違いない。
 気が付けば、家の中まで荒れていた。
 妻の介護におされて片付けきれなかった、洗い物やごみがいつまでも残っている。纏めて片付けようとすると、妻がうるさがって邪魔をしてきた。
 その内、異臭に気が付いた。
 本当は、もっと前から臭っていたのだと思う。当たり前になり過ぎて、鼻が慣れきってしまったのだ。
 臭いの元は、積み重なったままの洗い物、掃除の行き届かない水場、捨てきれないごみ。癇癪に任せて打ち捨てられた食事も、壁や床にしみついて饐えた臭いを発している。
 そして、妻だ。
 入院していた頃は、患者が非協力的であっても看護士たちが身なりを清潔に整えていてくれた。家に帰って来てからは、それすら出来なくなってしまった。妻は僕らに触られるのを嫌がって喚き散らし、物に当たった。自分で出来ると言い張ったけれど、やはり出来なかったのだろう。
 妻の側に寄ると、嫌な臭いが強くなった。
 酸化した汗や皮脂の臭い、吐瀉物や排泄物の臭いもあった。でもそれ以上に、もっと嫌な臭いがした。
 嗅いだ瞬間そこから離れたくなる臭いだ。神経に障ると言うよりも……本能に障る、とでも言うのだろうか。ずっと前に、祖父が死んだ時にも同じ臭いがしていたのを、何となく覚えている。

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