小説

『桜の下を駆け抜けて』中江田江(『桜の森の満開の下』)

 無機質な街灯のおこぼれで照らされた庭は、家の中と同じくらいに荒れている。庭木は艶のない枝を方々に伸ばし、生気も秩序もないまま、こんがらがって枯れ果てるだけのものに変わってしまった。去年に妻が育てていたはずの花も、乾いた雑草に紛れてどれがどれかも判らない。地面は湿気っていて、僕の足をじめじめと冷やした。
 僕はまた、さっきと変わらず悄然と俯く事しか出来ない。突然の激情は何の実も結ばず退いてしまった。冷たい夜風が吹き付ける。
 ふと、そこに、微かな匂いを嗅いだ。
 足元に白い花びらがいくつか流されてくる。
 顔を上げて風上を見ると、夜の闇にぼうっと浮かぶ、白い帯があった。桜だ。
 風にざんざんと枝を揺らす、満開の桜の木々があった。

「桜を見に行かないか」
 翌朝、僕は妻に誘いをかけた。彼女は胡散臭そうな顔を隠しもしない。それでも怯まずに、僕は続けた。
「退院したら、花見に行こうって約束しただろ」
 入院する事になった頃……まだ治療に希望を持っていた頃にした約束だった。今年はお花見に行けないねと、残念そうにしていた妻と確かに交わした約束だった。
 僕は妻の罵倒を待っていた。いつものように喚き散らしてくれればいいと思っていた。花なんか見て何になるんだと、くだらない事ばっかり言うなと罵ればいい。
 今更昔の約束を実現させて、自己満足に浸りたい訳じゃない。
 僕は、妻を諦めたいだけだ。
 けれど予想に反して、妻は大人しく頷いた。
「……いいよ。行こう」
 ここまで理性的な彼女の声を聞いたのは、本当に久しぶりだ。僕は内心酷く狼狽えてしまったけれど、表面上は静かに頷き返せたと思う。
 二人で話し合って――こんな事が出来たのも久しぶりだった――夜に行く事に決めた。
 行先は、すぐ近くにある公園だ。
 公園と一口に言っても、お馴染みの遊具のある小さな遊び場じゃあない。この地域の一時避難場所に指定もされている、広い土地を持った都市公園だ。
 土地を囲むようにたくさんの桜が植えられていて、僕が小さかった頃は、春になると昼も夜も花見客でいっぱいになったものだった。今ではご近所からのクレームで、レジャーシートや飲食物、酒類を持ち込んでの宴会は禁止されてしまっている。花見客は別の場所へ流れて行った。今年も、桜が見頃だというのに静かなものだ。

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