小説

『天狗』上原芽久美(『彦一ばなし』)

 彦一に隠れ蓑を騙しとられてからの天狗の歴史は、真っ暗だ。

 まず、人間は、隠れ蓑狩りを始めた。そちこちの天狗が蓑を奪われたのだが、この隠れ蓑、簡単に作れる代物ではないのだ。姿を消せるという性質上、藁だけでできているはずなく、自身の羽がそれ相応量編み込まれているのだから、天狗の長い一生かけて、1枚できるかどうか。多勢に無勢とはよくいったもので、神通力など何したものか、人間の乱獲にあってからこの世に蓑がなくなるまで、あっという間のことだった。もはや俺の世代ともなると、誰一人、作り方を知るものすらない。

 しかし、蓑がすっかりなくなるころには、ある種の人間にとって隠れ蓑は、それなしでは不都合なほど定着してしまっていた。実用にしろ悪用にしろ、どうにか代替は得られないかという思案の末に、天狗を燃した灰に目を付ける輩が現れた。隠れ蓑燃した灰で姿を消せるのだから、天狗を燃した灰にもその効果は期待できるのではないか、というのである。残念ながら人間のその仮説は実証され、間もなく天狗狩りが流行り出し、今はもうずいぶんになる。

 いつまでも燃やされる天狗に、この世に天狗はこんなにいたのかと、驚きをもって思う。いや、燃やされているおおよそが、天狗でないのかもしれない。そしてもう今は、天狗を燃やした灰が一番の目的ではないのかもしれない。それでも、天狗狩りの狂乱は止むことなくて、とにかく自分の身に、天狗の「て」の字もふりかからないように、天狗も天狗じゃないものも、息をひそめて生きている。

 そして、かくいう俺は、こうして釣りなどと、天狗から一番遠いところに身を潜めている。青い空の下、いつもの池の端、腰を下ろし釣り糸を垂れている。静寂は天狗にとっては拷問にも等しい。二呼吸もすれば、とたんに息が出来ないようで苦しくなる。寄せた眉間から、ずきずきと頭痛はするようだし、尻はむずむずとむず痒いようだし、こんな思いまでして、天狗であること、隠さなければならないのかと、情けなさでいっぱいになる。天狗たるもの、嵐のなかに身をおいてこそ、満ち足りる。激しい風にもまれて、吹きつける雨にたたかれて、今自分が、どこにいるのか、どうなっているのか、天か地か、自分か世界か、なにもかもがまじりあった混沌の内にこそ、生きているという実感はある。それなのに目下の池は、ただ静かにぬめぬめと銀色、いるともいないともしれない水面下の生き物の吐く息が、そちこちでポツポツ、水泡となってかすかにはじけているだけだ。何が恐いのだろう、と思う。仮にも天狗の身で、人の何が恐いのだろうと思う。考えるけれど、ぬめぬめと光る水面と、静かすぎる池の端は、いらだちと、わりきれなさと、恐怖と、みじめさと、浮かんでは消え浮かんでは消えるばかりなのだ。

 と、不意に、

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