小説

『天狗』上原芽久美(『彦一ばなし』)

 にやりと笑い、
「食べるのかしら」
 と言った。しかし、この喉は、もはや女への欲望でぐるぐると変な音立てて、言葉など出ない。今にも抱きつきたい衝動を抑えるために、女を睨め付けることしか出来ないでいると、女は、ぐっと鯉を踏みつけにした。
「ねえ、この鯉はさあ、私に譲ってくださらない?」
 白く、細い足であった。鯉は、池に落ち込みたいのを、びたりとふみつけにされながら、なおもびたびた跳ね狂っていた。
「ねえ、私はねえ、この鯉を、逃がしも食べもしないわよ、こう、ヌシみたいな鯉だもんねえ、私はさ、この鯉を吊るしてさ、毎日眺めてさ、日一日と乾いていくのをね、ただ眺めていたいのよ、からっからに乾くまで、ながめてさあ、最後はこの池にぽんよ、もうね、からっからだから、鯉はからりと浮かぶわねえ、そしたらさ、沈むまで私はみているわよ、今度はね、眺めたりしない、沈むのをただ見るのよ」
 そして、わあといって泣き出すのが早いか、俺が飛びかかるのが早いか、いつからどこにかくれていたのか、草むらよりざあと人が飛び出して、女をきゅうととらえたのだった。

「天狗だ」
「天狗か」
「天狗だぞ」
 と口々につぶやき、あっという間に、女を縛り、人々は遠くの何ものかに
「天狗一匹!」
 と叫んだのだった。女はわあと泣いたまま、どこもかしこも白いまま、しかし従順に連れ去られていった。

 鯉は、いつか動かず、天狗は俺だと言えない喉は、みじめさでかさかさだった。ああ、頼むから一匹なんて言わないでくれ、と。

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