小説

『桜の下を駆け抜けて』中江田江(『桜の森の満開の下』)

 優しく笑う声を聴きながら、綺麗な妻に絞め殺されそうになりながら、僕は。
 僕は、公園の奥へと、歩き出していた。
 妻が嬉しそうにはしゃぐ。僕も、鬱血した顔でぎこちなく笑った。
 頭上で桜がざんざん揺れる。
 もっと速くと、爪が喉に埋められる。
 僕は必死に足を出して、よろよろと地面を蹴った。
 耳の奥で風がゴウゴウ鳴っている。
 息が切れて目の前が暗くなる。
 その度僕は時計塔の方を見て、愛しい妻の姿を眺めた。
 妻が私を見て笑う。
 彼女の為なら何でも出来る。
 僕は積もる花びらを踏みにじって、桜の下を駆け抜けた。

 ふと我に返ると、僕は公園の外にいた。息は切れ、喉は痛み、圧し潰されるような頭痛がする。膝はがくがくと笑って、足の裏も擦り切れたように痛んだ。
 妻は僕の背中にいた。老木のようにごつごつした体を、僕の背中に収めている。
 妻は、何も言わなかった。
 僕はよろよろと足を踏み出した。妻を背負って帰途に就いた。玄関の戸を潜った時には、全身がばらばらになりそうだった。何とか妻をベッドに寝かせて、自室に戻った途端に僕は倒れた。もう一度起き上がる気力もなく、そうしてそのまま眠ってしまった。
 翌朝、当然の事ながら、体はどこもかしこも軋んでいた。歩くだけでも一苦労だ。それに顔を洗おうと鏡を見れば、首には痣と抉れた傷が残っている。寝不足の所為だろうか、目が真っ赤になっていた。
 けれど、僕は、再び妻を誘った。
「今夜も、桜を見に行かないか」
 横たわったまま妻は答えた。
「行かない」
「ごめん、疲れてるよね。じゃあ、明日の夜はどうだろう。明後日でも」
「行かない」
 妻はゆっくり目を閉じた。
「もう、いいの」

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