小説

『対価』久保沙織(『人魚姫』)

「勿論です。また週末にでも伺います」
 そうして、その日はマスターと別れた。

 五日後、私は仕事中にまた激しい動悸に襲われ、会社を早退する羽目になった。家に着くなり足の力が抜け、玄関で座り込む。以前よりも心臓は暴れ、呼吸が苦しい。誰かに喉を締められているような感じだ。
 水が飲みたくて、這いつくばりながらキッチンまで向かう。そのまま水道で顔を洗うと、あることに気が付いた。

「顔が戻ってる…」
 明らかに鼻が低くなっている。急いで洗面所の鏡を見ると、醜い顔の私がこちらを見つめ返していた。

「なんで…前は一週間保ってたのに…」
 どうして効力が短くなってしまったのだろう。飲めば飲むほど、効き目が悪くなるのか。もしそうなら、いずれ毎日薬を飲まなくてはいけなくなる。しかし、薬はあと一粒しかないのだ。
「どうしよう…」

 どういうわけか、醜い方の私は以前よりも顔がたるんでいて、さらにシワが濃くなっていた。胸のハリも失われ、首にもシワが刻まれている。

「この違和感、前回効き目が切れた時にも感じたのよね」
 何処となく、あの老婆に似てきた気がしてならない。

 その時玄関に置きっ放しの携帯が鳴った。
 急いで確認すると、マスターからのメッセージだった。

『今週末空いてる?』
「空いてます!」
『よかった。じゃあお店に来て。それでその後なんだけど…』
「???」
『俺の家おいでよ』

 一瞬目を疑ったけれど、この日を待ち望んでいた私は、見え透いた展開に分かり易く乗っかった。
「行きたいです。嬉しい」

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