小説

『対価』久保沙織(『人魚姫』)

 原因不明の動悸は治り、頭はもう週末を考える。最後の一粒を使う日が直ぐに迫って来てしまった。これで元の私に戻れば、もうマスターに会うこともできないだろう。会ったところで、どう私を証明するのだ。

「老婆にもう一度会えたらいいのに」

 幸せだった夢の終わりが見え始めていた。

 
『上がって。狭いところで申し訳ないけど』
 殺風景な部屋に通され、私はソファの上に座る。期待していた週末を迎え、つい先ほど最後の一粒を服用して、気合を入れたばかりだ。
 今日の私は過去最高の傑作で、顔から体から全てを念入りにお願いしてきた。

 これなら、マスターに裸を見られても恥ずかしくない。
 早く私を抱いて欲しい。
 好きな人に弄られる気持ちを知りたい。

 そう思っていたところに、マスターがお茶を持ってこちらにやってきた。私の顔を見て、何故だか嬉しそうに笑い、私にキスをしてからは二人ともソファーに沈み込んだ。
 それからはもうずっと体を重ねたままで、ベッドに移動した後も、愛して愛されてを繰り返し、気が付いたら朝が近付いていた。

 隣で眠るマスターの顔を見て、愛おしさが込み上げてくる。好きな人に抱かれるというのは、こんなにも気持ちが高揚するものか。繋がったまま、綺麗な私のまま、二人で蕩けてしまいたいとさえ思った。

 突然、胸の動悸が始まった。
 これまで感じた中で一番激しく心臓が跳ねる。
 もしやこれは、効力が切れる時の前触れなのではないか。
 酸素の行き届かない頭で、そう結論付けた。だとしたら、こんなところで戻るわけにはいかない。急いで服を来て、マスターを起こさないように外へ飛び出した。
 表通りで運良くタクシーを拾い、家へと帰る。様子が可笑しいと思ったのか、タクシーの運転手が「大丈夫ですか?」と言ってきたけれど、私は返答も出来ず、ただただ凄まじいほどの息苦しさに耐え抜いていた。

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