小説

『すてきなお家』逢坂一加(『みにくいあひるの子』)

「すみません」
 とりあえず、謝っておくことにした。そうすれば、丸く収まるから。

 母よりもたちが悪いのは、むしろ父かもしれない。
 平日の夜、お風呂上りに部屋へ行くと、父がいた。明かりもつけずに、部屋の中でごそごそしている。
 私が電気を点けると、父は顔を顰めて振り向いた。しかし、何も言わずにこちらを見るだけだ。私から話を切り出すまで、ずっとそうしているつもりだろう。
 だけど、例えば私が「何やっているんですか!?」 とでも責めようものなら、顔と足音だけ激しくして、無言で部屋から出ていくだろう。そして、機嫌が直るまで、ずっと乱暴に家の中を歩き回るのだ。あちこち殴りながら。
「何か用ですか?」
 怒っているのではないけど、優しくもない声で私は訊いた。
 父は顔を顰めたまま、もごもごと口を動かした。
「ほら、あの……シュッとする、臭いを取るやつ」
「身体のですか? 服のですか?」
 確認のために訊いたのに、父は急にぶすっとした表情になった。
「臭いを取るのは、服に決まっているだろう」
 体が臭うから服も臭ってくる、という理屈にはならないらしい。
 私は箪笥の上に置いてあるスプレーを差し出した。
「どうぞ」
「そんな分かりにくいところにあったのか」
 父の身長からでも、充分に見える位置だ。
 お礼も謝罪もなく、父は服の臭い取スプレーを持って、部屋を出て行った。
 きっと、私が部屋に来なかったら、無言で拝借して、しかもずっと返さなかったんだろうなあ。そう思うと、溜息しか出てこなかった。

 ボーナスの時期まで、私は我慢した。
 家を出るのが、とても憂鬱で、本当に足が重くなるような気持ちで、あの人たちと生活した。

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