小説

『脱出するなら絶望から』柘榴木昴(『死に至る病』)

 枕もとの受話器をとって番号を押す。9番がフロントらしい。
 「もしもし! もしもし!」
 うんともすんとも言わない。機械音すらしない。まさか。
 電話のコードをたどると壁のところで線が切られていた。これも兄がやったのだ。気絶させる前に部屋を物色していたあの時かもしれない。
 だが俺は脱出ゲームをやりこんでいる。兄貴がいくら秀才で策士でも、脱出についての気転は俺のほうがきっと上だろう。ふふふ、そう、窓だ! 窓から外に出られないか? 小さな窓に駆け寄る。
 窓を開けると絶景のオーシャンビュー! そうだここ海の上だった!
 いや、落ち着くんだ。何、簡単な事さドアをぶち破ればいいじゃないか。
 どうやって? えーと……。考えろ、俺は脱出ゲームのプロだ。あれだけやりこんだのだ。こんな安いホテルみたいな部屋なんて。
 使えるものはないか? なにかドアが壊せるようなチェーンソーみたいなものは……あるわけないよなあ!
 「誰かあ! 誰かいませんかあ!」ドアをバンバン叩いて叫ぶ。
 声にならない孤独と恐怖がこみあげてくる。涙が出てきた。兄貴はどうするつもりだ? いや、いや、いや。まだ一人でロシアに行くと決まったわけじゃない。兄貴は……きっと、なんか買いに行ってるだけかもしれない。入口にコンビニがあったからな。
 冷静になって部屋を見回す……兄貴の荷物がない。というかもともと兄貴は荷物らしいものを持っていなかった。ポケットにドアストッパーだけ忍ばせていたのか。最初から俺を船に乗せて置いてけぼりにするつもりだったのだ。
 ぷあぁーーー。ゆらりと世界が揺らいだ。
『ただいま予定通り出航いたしました。この船は境港発プサン経由ウラジオストク行きでございます……』
 どうすんだよお。
 韓国語での案内も始まった。全く意味が分からない。だがこれからもっと意味の分からない、いやもっと知らない世界へ放り出されるのだ。そういえばパスポートはどうすればいいんだろうか。と、思い至ったが兄貴がミスをするわけはないかとリュックのポケットを探すと文庫本と赤いパスポートがすぐ見つかった。文庫本は『死に至る病』だった。ムカついて投げ捨てる。パスポートにはハワイ以降久ぶりに見る学生時代の俺が写っていた。能天気に笑っていやがる。こんなもの取らなければ日本から追い出されることもなかったのに。いや、持ってないことにしようかな。そしたら強制送還されないかな。でもどうやって家まで帰ろう?
 思考がぐるぐるまわって目がまわる。ベッドに倒れ込むと、『死に至る病』からメモがはみ出ていた。開いてみる。縦長で力強い筆跡。兄の字だ。

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