小説

『蛍』菊野琴子(『金ちゃん蛍』与謝野晶子)

ツギクルバナー

 むかしむかし、蛍という虫がありました。
 その頃の蛍は、頭の先が少し赤いだけの、真っ黒い虫でした。綺麗な声で鳴くことも、面白く跳ぶこともない蛍を、子どもらは退屈がって、見つける端から踏みつぶして殺してしまうのでした。
 けれどただひとりだけ、蛍を庇う男の子がいました。
「こんなに優しい虫を、どうして殺してしまうの」
「何言ってんだ。こんな役に立たない虫、いない方がいいに決まってるだろ」
 そう言って子どもらは、その男の子も足蹴にします。
「わかったぞ。文治(ぶんじ)、おまえ、蛍の仲間なんだろ。この、役立たず」
 ははは、と笑いながら、男の子の背中に靴底の泥をなすりつけます。
 男の子は、あ、あ、と涙をこぼしながら、それでも惨めな声をあげることはなく、地面の蛍を見ていました。お逃げ、と胸の内でささやいた声が聞こえたかのように、蛍は草むらに姿を消しました。

 その夜、蛍たちはせせらぎの近くに集まりました。
 一番りっぱな姿をした、金之助(きんのすけ)という名の蛍が、口火を切りました。
「おれたちは、この姿に誇りを持ってきた。けれど、もう、それだけではいけない。あの子の目が、おれたちの中の誇りを見つけてくれた。もう、自分で自分の価値を知るだけのときは終わったんだ」
 一番頭のよい、三郎(さぶろう)という名の蛍が、頷きました。
「私たちの存在が、あの子へ開かれたならば、私たちとあの子との世界に共通して存在する新たな価値を作り出す必要があります」
 全ての蛍が三郎の言葉を理解できたわけではありませんでしたが、その言葉の奥にある気持ちは、皆が秘めていたものと同じでした。集まった蛍たちは、声にならぬ声で泣きました。そして、あの男の子の目に宿る、柔らかな光を思い出して、また泣きました。あんなに優しい光を、ひと目見たならすぐにでも心惹かれてしまうような美しい光を、なぜ人は疎むのだろうと思って、泣きました。
「生き物のかたちを変えられるのは、神様だけだと聞く。おれは、神様のところへ往こうと思う」
 金之助の言葉に、皆はどよめきました。風からかすかに聞いたことがあるだけの、遠い遠い方のところへ、本当に往けるのでしょうか。
「遠くつらい旅になるのは、覚悟の上だ。三郎、おまえも共に来てくれるか」
「勿論」

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