小説

『脱出するなら絶望から』柘榴木昴(『死に至る病』)

『ロシア日本人長期滞在者支援センターの番号を記す。ちなみにこのフェリーは今期の最終便だ。折り返しはない。広い世界での活躍を祈る』
 あとはその支援センターの電話番号だけだった。裏返すも何もない。これだけ。こんな走り書き一つで国外追放とかふざけてるだろ。
「兄ちゃん……酷いよう」
 俺が何をしたというのか。いや、何もしなかったんだが。
 それにしたっていきなり訳も分からずロシアに放り出すとは。むちゃくちゃだ。大体、好きで何もしなかったわけじゃない。何をしても上手くいかないんだからしょうがないじゃないか。上手く立ち回れる方法を教えてくれないから悪いんだ。コミュニケーションの方法とか、挫折しない生き方とかちゃんとおしえてくれればいいんだ。引きこもりだってやさしくて綺麗なカウンセラーとか来てくれて、順番に自信をつけさせてくれれば俺だって素直に復活したかもしれないじゃないか。なにもこんな横暴なことしなくても。クソだ。父さんも母さんも兄貴もクソ野郎だ。
 泣けてきた。泣いてもあがいてもどうしようもない。わかっているけど心臓が叫んでいる。怖い。
 これから先何も見えないことを絶望というんじゃないのか。じゃあこれは絶望じゃないのか。一人でロシアで何したらいいんだよ。
 兄の太い声が蘇る。
 真の絶望は絶望していることに気付かないこと……
 じゃあ絶望的だと理解している今はまだ、マシなのかもしれない。
 死に至る病とは絶望のことだ……本を手に取る。セーレン・オービエ・キルケゴール。この作者はどうやって絶望から光明を見出したのか。
 今ならなんとなくわかるかもしれない。やるしかないのだ。不安でも不安なりに生きるしかないのだ。信仰ともいうべき礎を見出すのだ。己の中に、絶望に流されなくても済むような。でも、どうやって? ベッドに腰かけぺらりと本のページをめくる。
 ゆらり、船が加速する。夜の大海原を今、全速前進で航海が始まった。

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