小説

『脱出するなら絶望から』柘榴木昴(『死に至る病』)

 取り落としそうになったナイフを慌てて構えなおす。
「ほう、レミントンのダマスカスブレードじゃないか。良いものを持っているな。だがそいつを持っていくのは少し骨が折れるぜ」
 兄が部屋を見回す。俺は引きこもりであってオタクではない。定番の美少女フィギュアだのポスターだのはないものの、漫画やゲーム、脱ぎ散らかした服とネット通販で買いまくっているペットッボトルが部屋の大半を埋めている。それにしてもドアをぶち破られたというのに母さんも父さんも出てこないあたり、兄に任せてあるのだろう。これは本格的にヤバい気がする。
「まあ着替えと金があれば問題はないだろう。すぐ準備しないならこのまま連れていくぜ……ん?」
 兄が本棚から一冊の本を取り出す。
「『死に至る病』か。……哲学書はこれ一冊だな。キルケゴールが好きなのか」
 タイトルがかっこいいしなんか共感するものがあるから惹かれて買ったものの、全然意味が分からなかった本だった。いつ買ったものかも忘れていた。兄はパラパラと中身をめくって机に置いた。
「オレも持っているぜ……さて、いくか」
「や、やだよ。い、いきなりなんだよ」
 ナイフを突き出して威嚇する。実際に使ったことはもちろんないし人に向けたのも初めてだ。兄はゆっくりと人指しゆびでナイフをさす。
「いいか……あらゆる武器は相手に取られると形成が逆転する。しっかり握って構えろ」
 兄はポケットに手を入れて一歩近づいてくる。俺は気おされて後退する。
「さ、さすぞ! 本気なんだぞ! おれ、おれは命令なんて聞かないぞ」
「しっかり構えろと言っている……相手に傷を負わせることを考えろ。慣れてない奴は流血するだけで戦意がそがれる。脇をしめて獲物を両手で支えろ。外さないことを意識しろ。相手の芯を一気に狙え」
 更に一歩近づいてきた。俺の後ろはもう壁だった。
「うわ、うわうわわあー!」
 突進した。もうむちゃくちゃだった。これは戦争なのだ。俺の意地と、よくわからないが兄貴の計画のぶつかり合いだ。俺の必殺剣がうなる。
 何が起こったかよくわからないが、顔面に強烈な痛みが一瞬だけ走った気がした。

 目が覚めると車の助手席だった。肉厚のシートはまるで化け物の口の中のようだった。隣を走るトラックに映るランボルギーニ。そして鼻血まみれの俺。

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