小説

『脱出するなら絶望から』柘榴木昴(『死に至る病』)

「うおあ!」
 シートベルトに絡まりながら運転席を見ると兄貴がちらりと視線だけ寄越した。
「起きたか。よく眠っていたな。ほれ、タオルだ。血を拭いて着替えろ」
 顔面が熱かった。サイドミラーを覗き込むと顔の半分が赤く張れていた。口を動かすと血の味がする。奥歯もなくなっている気がする。後頭部と肩にも痛みがあった。兄貴の暴力は兄貴にとっては他愛のない兄弟喧嘩、いや喧嘩にすらなっていないのだろう。
 足元のリュックには着替えが入っていた。タンスの中のエロ同人誌も見られただろうか。俺は黙って言うとおりにする。正直恐怖より諦めの方が強かった。根本的に勝てない仕組みになっているのだ。たとえ俺が日本刀やバズーカを持っていても兄貴には通用しないのだ。
 辺りは日が暮れ始めている。時計をみると17時を回っていた。
「なあ、に、にいちゃん」
 リュックの中から水を出して飲んだ。口に喉に胃に染みる。
 兄は何も言わない。ランボルギーニは160キロで高速を走り抜ける。
「お、俺が何したっていうんだ。俺、どこに連れてかれるんだ」
「……お前は何もしなさすぎだ」
 返す言葉がない。車はインターを降りて田舎道を走る。看板に目を向けると鳥取、と見えた。
「鳥取?」
「そうだ。境港まで行く」
「境港って鬼太郎ロードの?」
「ああ。だが観光しに来たわけじゃない。それにあの辺の店は軒並み五時で閉まるからな」
「じゃあ、な、何しにいくんだよ」
 兄は何も言わない。代わりに英語のようなフランス語のような言葉のラジオを聞き出した。
 しばらく走ると磯の香りがしてきた。海が近いのだ。と、言うことは境港に近くなったのだろう。鬼太郎達が描かれた駅をかすめ、少し走ると駐車場に車を滑りこませる。エンジンを止める。辺りは暗くなっていた。
「総司」
「な、なに」
 何年ぶりかに名前を呼ばれた。
「……死に至る病とは、絶望のことだ」

1 2 3 4 5 6 7 8 9