小説

『脱出するなら絶望から』柘榴木昴(『死に至る病』)

「壮一郎、おかえり」
「……ああ」
 兄貴?! うそだろやばい! 
 いや、何もヤバくはないがなんかヤバいのだ。兄の壮一郎は美形で筋肉質で秀才という化け物だった。ギリシャ彫刻がそのまま歩いているような、ミケランジェロが作りましたみたいな男。夏休みにアルミ缶で作ったポンコツロボットが引きこもりましたみたいな俺とは月と亀頭くらいの差がある。
 190センチを超える長身が大きな歩幅でみしりみしりと歩いていく様子が伝わった。前に会ったのは……正月に帰ってきたときは結局一度も顔を合わせなかったし、泊まることなく帰っていった。なんなら八年くらい前に兄がハワイで挙式を挙げたときに会話したのが最後じゃないかな。そうだ、その冬に大学に軒並み落ちて、引きこもり始めた気がするな。まあ、兄貴も忙しいはずだ。すぐ帰るだろう。今日はもう11月の……何日だっけ。まあ終わりがけくらいだ。盆にも返ってこなかった兄貴がいきなり戻ってきた理由はわからないが、たまに日本に帰ってきたからとか、そんなところだろう。とりあえずこのままなりを潜めておこう。
 それに多分俺が引きこもってることも忘れているだろう。兄貴は別世界の人間で完璧すぎるのだ。突き抜けすぎてて俺は嫉妬もしてないしうらやましくもない。関わらない宿命なのだ。
 鼻くそをほじりながら屁をかましつつペットボトルの緑茶がないことに気付いた。ヤバい。水分がないなんて死活問題じゃないか。ここが砂漠じゃなくてよかったぜ。とはいえ今台所に降りる訳にはいかない。兄貴がいるからな。最悪トイレの手洗いの水がある。ウチの二階は俺の部屋とトイレ、使わなくなってタンスが置いてあるだけの兄貴の部屋しかない。母さんは時々布団を干して掃除しているから、これまで一度もないが兄貴が泊まるときに使うつもりなんだろう。パソコンを開いて動画サイトから音楽を流し途中やりの脱出ゲームを開く。見知らぬ部屋からアイテムを見つけて活用しながら部屋の外へ出るというゲームジャンルで、もういくつもクリアしていてベテランの域に達していると言えよう。現実には引きこもりの俺が脱出ゲームにいそしむ。この背徳感がたまらないのだ。いや、罪の意識を忘れないためでもある。うん、これもまた苦行であり尊い行為ではないだろうか。
 しかし最近はパターンがだいぶ読めてきた。どいつもこいつも焼き直しみてーな作品ばっかりで腐ってやがる。変にひねって無理ゲーなのも多く、この辺の見極めが重要なのだ。俺くらいの職人になると審美眼もかなり利くから先にレビューに目を通しておけばまあよほどの……
「おい、いるか」
 ごんごんと有無を言わさないノックがした。息を止める。誰だ? いや誰だって兄貴だよな。うわあやべえ。椅子からそろりと降りる。隠れた方がいいかな。まあ鍵がかかっているから……?!
 しまった! さっきドア開けたあと鍵締め忘れた! とりあえず布団に潜り込む。寝たふりだ。気が付かないんだ。無視してるわけじゃないんだ兄貴。俺寝てるんだぜ。

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