小説

『命運』森本悠也(『運命』)

 しかし、そんなことはどうでも良いと思った。唯々諾々として彼らの言う通りに従っただけなのだから。もうこれ以上、説明するのも考えを巡らせることにも彼は憔悴した。どこかで上手く間隙を見つけてここから逃げ出そう、とそのことだけを考えた。
 片手にビジネスバッグと折りたたんだスーツを抱え小ホールに戻ると、血まみれの人間たちは忽然と姿を消していた。
「加藤、こっちに座れよ」さっき一階で電話をしていた金髪の男だった。彼は壁に背中を預けて、あきらを見つめている。「ぼやっとしてないで、早く座れよ。ほら」金髪の男は朗らかな様子で床を二回叩いて言った。
 あきらは言われるがまま隣に腰を下ろす。金髪の男はダークブルーのレザージャケットを身に纏い、白のジーンズを履いていた。ジーンズにはあちこちに血がねっとりと付着している。
「で、調子はどうよ?」金髪の男はポケットからミントガムを取り出し口に入れ、クチャクチャと噛んだ。「――あっ、いる?」あきらにガムを差し出す。
「いや、結構です」あきらは右手の平で制止する。
「あっ、そう」残念そうにガムをポケットに戻す。「で、なんで敬語なんだよ? お前、昨日と言いおかしいぞ」大きく目を広げ、あきらの顔を覗き込んだ。
 あきらは反射的に顔を逸らす。自分でも何故顔を逸らしたのかは分からなかった。彼が、自分は『加藤』ではなく『中村あきら』だと嗅ぎつけられることを恐れる必要はない。むしろ、先ほどから何回も自分は『中村あきら』であることを主張しているのだ。それにもかかわらず、本物の『加藤』が不意にここに現れるかもしれないし、誰かが自分の正体を暴き、それがアウトブレイクみたいに全員に感染するかもしれない――そんな考えが頭を駆け巡る。
「どうしたんだよ? そんな神妙な顔して」
「……いや、別に」
「何だ? 昨日のこと気にしてんのか?」
「どうして久保さんはあんなに怒ってるんだ? 昨日、俺は一体何をしたんだ?」あきらは『加藤』のことを少しでも探ろうと不本意ながら彼を演じてみせた。
「……加藤、お前冗談はやめろよ。江元にそんなこと言ってみろ――殺されるぞ」先ほどの明朗さとは一変し低い声で物騒なことを言ったので、それ以上、金髪の男から『加藤』について訊きだすことはできなかった。
 その後、知らない女から一階に来るよう指示を出され、あきらと金髪の男は階段を下りる。その途中、金髪の男は『浅田』と女から呼ばれていた。
 そして、あきらは目の前の場景に驚嘆する。

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