小説

『命運』森本悠也(『運命』)

「……こっちに来て」蚊の鳴くような声で言った。
 怪訝そうに女に近寄り「何ですか?」と訊ねる。
「あなた……加藤君じゃないでしょ?」
 想定にない言葉に、あきらは息が詰まる。
「大丈夫。加藤君じゃないことは初めから分かってる。あなたが『加藤』という人物像をどう認識していたかは知らないけれど、全然違うもの――別人よ」表情を変えずにあっさり言った。
「いや、あの……」自分を『加藤』ではない、と初めて言ってくれた人間が目の前にいるにもかかわらず、二の句が継げない。
「江元君が来るから早く帰る準備をして」
「えっ?」何度も聞いた『江元』という名前。加藤と江元の間には一体何があるのか? それを訊く時間は無さそうだった。
 あきらから銀のバットを取り、「服はそのままでいいから」と女は言った。「それと、正面からしか出られない――だから、なるべく怪しまれない様に涼しい顔をしてね」
 そこから先は一瞬だった。
「おい、加藤。今から、脱出シーンの撮影だ」そう言って、久保が彼の所に接近するタイミング――走り出していた。足が絡まりそうになりながら。
「加藤!」久保は声高に叫ぶ。「皆! 彼を止めるんだ!」
 後方から久保の大きな声が聞こえてきたが、あきらは一度も振り返らなかった。スタッフや血まみれの人間たちが恐ろしい形相をして自分を追ってくるのだと思った。
 ひどく湿った鈍重な潮風が、彼の行く手を阻もうと体に纏わり付いてくる。自分がこの街に二度と近付くことはないだろう、とあきらは思った。疲れていたのだ――他人の人生の一部に触れることが如何に恐ろしいかを彼は僅かな時間で体感することができた。また加藤自身も、中村あきらの人生に触れたことを知らぬうちに思い知るはずである。しかし、いつかこの街に本物の『加藤』が戻ってきたときに、あの女が真実を伝えてくれるかもしれない。そして素知らぬ顔で日常を取り戻し、再び違う人間を演じるのだ。銀のバットを選べば問題なく進行する。
 自分も『中村あきら』に戻ったからには、自身の役割を全うしようと心に決めた。近い将来、加藤をスクリーンで観ることができるかもしれない、とあきらは笑みを浮かべる。彼は『江元』の存在など、すっかり忘れていた。
 犬が何処からか吠えている。その時、自分がひどく焦っていたのだと分かり、足を止めた。どうやら最初に歩いた道とは反対から駅に近寄っている。こんなに暗い道は通っていない。
 唐突に後方から嫌な音が聞こえる――重い金属を引きずるような鋭い音だった。あきらはそちらに顔を向けた。それが誰であるかを考える必要はないだろう。暗闇からバットを持った人間が現れるのを見て、自分はまだ『加藤』なんだと再び実感した。

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