女は中から衣類を取り出し、それを大事そうに胸に抱えて戻ってくる――そして、笑顔で手渡してきた。
「じゃあ、お願いしますね。加藤さん」
「だから、俺は加藤じゃ――」突として左肩に強い力がのしかかる。あきらは自分の肩越しに視線を向けると、一階の四角いテーブルのところに先ほど座っていた男が、自分の肩を掴んでいることに気付いた。
「久保さん、時間があまりないです」女は腕時計を見ながら言った。
「ああ、分かってる――楓、浅田がどこに居るか知ってるか?」
「さっきすれ違いましたけど……どこに行ったんでしょう?」
女の名前は『楓』というらしく、先ほどの男も『久保』ということが判明する――だが、そんなことはどうでも良かった。腕時計を確認すると時間は二十一時を少し過ぎていた。こんな辺鄙なところで終電を逃す訳にはいくまい、とあきらに焦りの色が見える。
「おい、加藤。早く着替えろ」
「だから、俺は加藤じゃないですって! 中村あきらですよ。人違いです。それに終電逃したくないんで、これで失礼します」あきらはイライラした調子で言う。
あきらより頭一つ背の高い久保は、偉そうに鋭い目つきで上から見下ろして「終電? お前、いつから電車を使うようになったんだ? 江元もお前もバイクだろ」
また知らない名前が発せられた。
「だから人違いだ、って言ってるでしょ。いい加減にしてください――」
あきらは左手首を掴まれる。ついさっき、楓という名の女に掴まれた時とは比較にならない――非常に強い力で。
「いい加減にするのはお前だ、加藤」眼光鋭く、子供なら泣き出してしまうほどの迫力。「昨日のこともあって、皆苛立ってるのが分からないのか? お前と江元を完全に許すのは、今日が終わってからの話だ――まあ、もう江元は来ないだろうけどな」
手前に引っ張っても全く動かなかった腕がようやく解放される。
彼は、自分がそんなに『加藤』という奴に似ているのだろうか? と再び考えた。皆が皆、見間違えるほどに『加藤』に瓜二つだというのか? 自分の現在の立場が全く分からない。何故、この『久保』と呼ばれている男が苛立っているのかも理解できない。先ほどからこちらを奇異そうな表情で、じっと見つめてくる視線も気になる。あの女――血まみれの女。メイクを施された乱れ髪の女。
あきらは廊下の一隅に否応なく誘導され、手に持っている衣類に着替えさせられた。黒いパーカーに色落ちしたジーンズという至って凡愚な恰好だったが、この姿に革靴の組み合わせはどう考えてもバランスが悪い。