小説

『テシガワラ社長の止まらない朝』吉原れい(『裸の王様』)

「あら、テシガワラ社長、どうもおはようございま―」
 婦人が会釈をしたその瞬間、テシガワラ社長が婦人に思い切り体当たりした。婦人は悲鳴をあげてその場に倒れた。
 それでもテシガワラ社長は止まらない。そのまま家の中へ上がり込み、廊下を突き進んでいく。
「テシガワラ社長!」
 ナミコが社長を追いかけやって来た。ナミコは、玄関口で倒れていた婦人を助け起こすと、「おじゃまします」と家の中へ上がった。

 奥の方から、何かにぶつかる物音が立て続けに聞こえる。
 ナミコが音の方へ急ぐと、テシガワラ社長が台所で、冷蔵庫に膝頭をガンガンぶつけていた。
 ナミコは慌てて駆け寄り、テシガワラ社長の腰に抱きつくようにしてその体を冷蔵庫から離した。しかし体が離れた途端、ナミコはまた反動で後ろに尻餅をついてしまう。社長の体は勝手口の方へと向き、突進していく。
「止まってくれ!」
 しかしテシガワラ社長は止まらない。再びドアに顔面をぶつけ、歩こうとして勝手に曲がる膝が、ドアにガンガン当たる。痛さに呻きながら、テシガワラ社長は仕方なく勝手口のドアノブを回した。
 外へ出て行くテシガワラ社長を、腰を痛めたナミコは、見送ることしかできなかった。
「一体なんなんだこの足は!」
 勝手口の向こうから、テシガワラ社長の怒声が聞こえた。

 テシガワラ社長は、勝手口の先にある木戸を抜け、そのまた向こうにある車道を横断する。幸い早朝のため、車通りはほとんどない。
 車道の向こうには、土手があった。土手を上がり、下ると、テシガワラ社長の眼前に、悠々と流れる川が飛び込んできた。
 まさか、まさかまさか。
 そう思っているうちに、テシガワラ社長は、どんどん川の方へと近づいていく。
「待て! 待てと言っているだろう!」
 しかしテシガワラ社長は止まらない。ついに川の中へ足を踏み入れてしまう。

1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11