小説

『テシガワラ社長の止まらない朝』吉原れい(『裸の王様』)

 対岸の土手に、犬の散歩をしている老人がいた。老人は、視界の端に妙なものが見えた気がして川に目を向けた。パジャマ姿のテシガワラ社長が川を横断していた。老人は自分の目に映っているものが何なのか、理解するのに十秒ほどかかった。それからようやく、あの男は何故、パジャマ姿で川の中を歩いているのだろう、という疑問が湧いた。しかし疑問が湧いたところで、老人にはその奇怪なパジャマ姿の男の行動を理解することはできなかった。まさか大企業の社長だとは誰も思わないし、足が勝手に動いて止まれないのだとも思わない。老人はただ不思議そうに見つめ、やれやれといった表情で、愛犬を連れて立ち去ってしまう。

 テシガワラ社長は、老人の姿に気付いていながら、助けを叫ばなかった。もしここで「助けてくれ」と叫んでいたのなら、この後の大騒動は起こらなかったかもしれない。
しかし、テシガワラ社長は、誰かに助けを求めたことなど、人生において一度たりともなかった。誰かに頼ったり、甘えたりすることができないのだ。こんな狂ったような非常事態の時でさえ、テシガワラ社長の頭の中では、次のような妄想が繰り広げられる。

 新聞の地域面の片隅に、ある記事が載っている。『テシガワラ社長、川で溺れかける!』という見出しの下には、自分よりも年上の老人に、川から引き上げられている写真が掲載される。
 テレビのワイドショーでは、テシガワラ社長が担架に乗せられ、息も絶え絶えの様子で救急車に運ばれて行く模様と、テシガワラ社長を救ったヒーローとして、インタビューに意気揚々と答える老人の姿が映し出される。
 一方、会社では、秘書たちが「あんなかっこわるいおっさんの下で働いてるかと思うとまじ萎える」などと言い合っている。

「そんなの絶対にだめだ!」
 心の声が思わず声に出ていた。
 こうしてテシガワラ社長は、対岸にいる老人が歩き去るのを故意に見送った。

 幸運なことに川の水嵩は、中ほどまで入っても腰ほどの高さしかなかった。しかし、流れが予想以上に速く、なかなか対岸まで辿り着けない。テシガワラ社長はどんどん川下へと流されていく。
 そして次の瞬間、悲劇が起きた。テシガワラ社長は、川底のぬめった石で足を滑らせてしまい、川の中にボチャンと倒れた。立とうとするも、テシガワラ社長の足は今、歩くことしか考えていない。川面をバチャバチャとキックするだけだ。テシガワラ社長は面白いくらいすんなりと、川に流されていった。

1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11