小説

『孤児と聖母』明根新一(『母子像』)

 あの男が来ることを期待して見張っていたのだけれど、いざあの男が店内に入っていくところが見えた時、逆にもう逃げられないのだという恐怖が増してきて、期待が裏切られたような気がした。あの醜い男が店内に入ってから再び出てくるまでは無限の時間がたったように思えた。
 尾行をするのは思いのほかわくわくした。そんな気持ちになっている幼稚な自分を意識しながら僕は終電間際の車内に滑り込み、周りのサラリーマンたちの酒臭い息にまとわりつかれながら、男を見失わないように神経を張り詰めさせていた。
男は店の最寄り駅から十五分ほど電車に揺られ、郊外の比較的大きめの駅で降り、そこから十分ほど歩いた先の五階建て市営マンションの二階の端の部屋に入っていった。オートロックがないことが幸いだと思った。

 野球部の部室からケースに入った金属バットを盗み出した。下校指導の教師たちに見つからないように、指定の登下校路から外れた道を歩いていると背中を冷たい汗が流れていくのが分かった。これから自分がやろうとしていることが怖いのか、それとも単にバットを盗んだことがばれて教師に問い詰められることが怖いのか自分でもよく分からなかった。
 これをもって男の部屋の玄関の前に立つ。インターホンを鳴らして、のぞき穴から姿を見られないように右手に二歩ほどずれたところで、ドアを凝視する。ドアが開いた瞬間にバットを持って部屋に押し入り、男を脅して母の居場所を聞き出す。男の顔は恐怖でさらに醜くゆがむだろう。だが、僕はその罪深い醜さを恨みながらも、男に危害を加えるつもりはなかった。また以前のように、誰にも邪魔されず、母と二人でつましく暮らしていくことさえできれば、それで満足だった。「頼むから、僕からあの人を奪わないでくれ!」僕は、そうやって男に懇願するだろう。無様でも構わなかった。母さえそばにいてくれたら。あの女神のように美しい母が!

 男の家に押し入るのは明日の土曜日に決めた。休日だったら日中訪ねても男が在宅している可能性が高いだろう。今日のような平日に訪ねてみて、男が仕事や、それこそ母の店に行っていて夜中まで帰ってこなかったら意味がない。そもそも中学生が夜中に出歩くこと自体、危険なのだ。金属バットなど持っていたらなおさらだ。お節介な誰かに警察に通報されでもしたら元も子もない。日中だったらバットを担いだ中学生が出歩いていても部活帰りくらいにしか思われないだろう。
 その夜は母の布団で眠った。母の香りが染みついた枕に顔を押しつけて思い切り息を吸い込んだ。頭の中か、あるいは腹の奥底で何かがはじけた気がした。たけり狂った獣のような声が漏れ、僕は手足をばたつかせた。よだれが口元を伝い枕を濡らす。母の香りが、酸っぱいにおいにかき消されていく。大変なことをしてしまったと思った。大切な母の香りを自分の匂いで汚してしまった。もしかしたらもう二度と母に会うことはかなわないかもしれないという今の自分の立場を忘れていたのだろうか。間抜けな自分への怒りで僕は呻きながら手足をばたつかせた。どこまでも自分が狂っていってしまいそうな気がしたけれど、それを止めようとも止めたいとも思わなかった。たただひたすら体を下へと打ちつけてそのたびに感じる痛みにすべてを任せた。いつまでそんなことを続けていたのか分からない。ふと、下腹部に走った快感が脳内を突き抜けて我に返った。僕の性器からあふれ出た精液が下着とズボンからしみだして布団をぬらりと湿らせた。鼻孔をカルキのような匂いが突き刺して、気づくと僕は嘔吐していた。僕の周りにはもうあの母の香りの残してくれるものは何もなくなってしまった。

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