小説

『孤児と聖母』明根新一(『母子像』)

 僕はこんな男を家に連れてきた母にささやかな抗議を込めてそう言い、窓を開けた。母は少し不機嫌そうな顔をして僕から目をそらし、男の方を見た。僕はその母の振る舞いにショックを受けて、「ごめん。この人を悪く言うつもりはなかったんだ」と言ってむりやり口元をほころばせた。内心を隠して笑みを浮かべることはさほど難しくなかった。「そうよ、この人のおかげでお母さんとあなたは生活できているのよ」と言って母は笑った。いつもと変わらぬ麗しい笑顔だった。同じ笑顔でも僕と母とでは全く違う。僕の笑顔は父の血が入った分だけ汚れていた。
 その晩は男も含めた三人で母が作ってくれた夕食を食べて、男・母・僕の順で風呂に入り、十時半ごろには電気が消された。
 その間、男と僕は何も話さなかった。ただときおり彼は僕に不快な視線を向けてきた。男の視線に射抜かれている数秒間、僕は父のことを思い出していた。せっかく母が作ってくれた料理を吐き出してしまいそうになるくらい、僕を見る男の顔は気味が悪かった。
 布団が二つしかないから、一つの布団に男が寝て、もう一つに僕と母が寝た。隣に男がいるという恐怖は母のぬくもりでかき消した。こんなことが無ければ母と一つの布団の中で一緒になって、彼女のぬくもりを感じながら眠りにつくことはできない。そう考えて僕は少しだけ男に感謝することにした。

 翌日、昼前に僕が目を覚ました時には、男はもういなかった。母は随分と機嫌がよかった。僕の学校カバンから勝手に漢字テストの答案を引っ張り出してきて、「すごーい。満点じゃない!」と褒めてきた。母に褒められるのはいつだって嬉しいけれど、単なる小テストの出来をどうこう言われても対応に困った。
 昼食にインスタントラーメンをすすっていると、とつぜん母が神妙な顔をして僕の目の前に正座をした。「大事なお話があるのよ」彼女は切り出した。「昨日来た方ね、これからもちょくちょく来ると思うの。あなた、昨日ずっと不愛想だったじゃない。あの人のこと、嫌い?」
「嫌いじゃないよ、全然。ほら、昨日は突然だったから。それで僕、どうしたらいいのか分からなかっただけ」
 僕のその言葉を聞いて母はひどく安堵したようで目に涙を浮かべて、僕の頭をくしゃくしゃとなでた。
 母はずっと父に虐げられてきた。父が失踪して彼の暴力から解放されたはずなのにひどく憔悴している母を見た僕は、世の中にこんなにもいじらしい人がいるのだろうかと考えた。それ以来、僕が母に捧げる献身は無償のものだった。母の言いつけであればたとえ報われないことだったとしてもなんだってやる。とはいってもやはり、女神に頭を撫でられることほどの幸せは他ではありえなかった。

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