小説

『孤児と聖母』明根新一(『母子像』)

 母がいなくなった。三日前に学校から帰ってきた時にはもう姿がなくて、それっきり帰ってこない。その日は仕事が休みのはずだったから、僕はてっきり、扉を開ければそこには母と客の男がいるものだと信じていた。
 僕の小学校卒業が間近に迫ったころ、父が長年不倫関係にあった女と一緒に失踪した。それ以来、母は「夜の仕事」について僕たち二人の生活を賄った。「夜の仕事」というものが一体どういったことをさすのか、中学生にもなればだいたい察しがついた。それは想像して気持ちのよいものではなかったけれどその反面、僕は醜く汚らわしい父がいなくなってくれて、母と二人きりで生活ができることを喜んでいた。
 僕が学校から帰る夕方ごろから、母が仕事に出る夜の八時ごろまで、狭いアパートの一室に美しく女神のように清廉な彼女と二人きりでいる時間は、僕にとって至福だった。母が作ったつましい夕食を食べ終えて、「洗い物お願いね」と微笑んだ彼女が仕事に行くためにドアを出ていく姿を見るといつも目から涙があふれた。それから母の言いつけ通りに洗い物を済ませ、宿題をやってから風呂に入ってすぐに眠った。一人きりで眠りにつく寂しさを、クラスメイトの女子の体を想像することで紛らわせることを僕は自分に禁じていた。それは、母に背く行為であるように思えたし、そもそも母より美しい女性なんて僕の知る限りにおいていなかったからだ。

 そんな僕たちの、清貧に甘んじた生活を邪魔する者が現れたのは、今から三か月ほど前のことだった。その日は、母がいつも休みを取っている金曜日だったから、僕は喜び勇んで家路についた。
 今日は一晩中、母と一緒にいられる! 泥だらけのスニーカーを脱いで、アパートのドアを開けた。一瞬、「帰る家を間違えたのだろうか」と思った。いつも母が寝ているベージュ色のシーツがかかった布団に見知らぬ男が寝ていたのだ。男は、聞いているこちらの方が苦しくなるようないびきをかいていた。無理もない。男の腹は、巨大な獣を丸呑みした蛇のように異様に膨らんでいた。部屋にはかすかに煙草の匂いが漂っていた。母は煙草を吸わないので、男が吸ったのだろう。
「びっくりさせてごめんね」
 襖をあけて出てきた母はいつも風呂あがりに着ている紫のキャミソール姿でほほ笑んだ。「常連さんなのよ。いつもお母さんを指名してくださるの」
 こぶしで殴られた時のように頭の中がぐらりと揺れた。母の声は何だかうれしそうだったけれど、僕にとってこの客の訪問はもちろん喜ばしいものではなかった。依然としてひどいいびきをかいている男は、体型のみならず、顔全体が脂ぎって、ひげの剃り跡も青々としており、あまりに醜かった。僕は醜いものが嫌いだ。醜いものは父を思い出させる。
「煙草臭いね」

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