小説

『孤児と聖母』明根新一(『母子像』)

 僕があの男に気を使っているのは、ひとえにこうした母の言いつけがあったからだ。食事の皿を彼の前に運ぶのも、酒を注ぐのも、煙草に火をつけてやって、ときには一緒に吸うのも、肩をもんでやったり、穢れた手で母の体に触るのを見て見ぬふりをしてやっているのも、すべては母のためだった。それで母の仕事がうまくいって、彼女が笑ってくれるのなら本望だった。自分があの男に気に入られているとか、高校に行けるとか、そんなことはどうでもよかった。母のためなら僕は何でもするつもりだった。ただ、僕から母を奪うことさえしなければ、僕はいつまでもあの男に服従する覚悟はできていた。

 
                  ○

 
 今日も母は返ってこなかった。もう二度と、この家に帰ってくることはないだろうと直感で分かった。親子なのだからそれくらい分かる。母はあの男とどこかへ消えた。僕は聖母に捨てられた。僕は孤児だ。これからどうやって生きていけばよいのかという疑問がふと浮かんだ。母がいない自分の将来について考えたのは初めてだった。
 もっとも、母に対する怒りは湧いてこなかった。いつなんどきでも母は決して悪くない。悪いのはあの男だ。あの男が僕のもとから母を連れ去った。
 許せないと思った。母は衣服などの荷物はほとんど残していった。必要最小限のものだけ持って出たようだった。僕は母のカバンや服のポケットなどをひっくり返して母が今いる場所の手掛かりとなるものを探した。二時間ほどその作業を続けて、母が昔使っていた古いカバンの底から、彼女が店で出している名刺を見つけた。自分から行方をくらましておきながら、こういった決定的な手掛かりとなるようなものを残していってしまうあたりが母らしくて、僕は口元をほころばせた。ピンク色のハートがあしらわれた派手な名刺が涙でぼやけた。
 はやく二人の居場所を突き止めなければ、遠くに行ってしまって見つけるのがより難しくなるかもしれない。そう思って、その夜の内に名刺に書いてある店の住所まで行ってみた。
 入口から見えるところに受付があって、そこで好みの女性を指名して中へ入っていくシステムになっているようだった。ここまで来れば、受付で名刺を出して、「僕の母を返してください」と言えば済むはずだった。それなのに僕はどうしてもその勇気が持てなくて店の入り口が見える物陰に隠れながら全く動くことができなかった。こんな意気地なしだから母に捨てられたのだろうと思った。この界隈は似たような風俗店がいくつかあって、さかんに呼び込みが行われていた。そんな人たちに見つかってしまったらまずいことになりそうだ。寒くもないのに指先が冷たくなっていくのを感じた。母がいるはずの店の入り口をじっと見つめることしかできなかった。

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