小説

『孤児と聖母』明根新一(『母子像』)

 スウェットパンツに水色のTシャツを着て家を出た。金属バットを持っていることが変に目立たないように、本当は野球部の奴らがよく着ているトレーニングウェアのようなものがあればよかったのだけれど、僕は部活に入っていないからあいにくそういったものは持っていなかった。野球帽をかぶったのがせめてもの工夫だった。
 悪いことをしているつもりは毛頭なかったけれど、電車の中で僕は何度も帽子を目深にかぶりなおした。僕の人生には直視できない、目をそむけたくなるようなことばかりが起こるようだった。それは僕があまりに無力だからで、母のせいでは決してない。母をあの男から救い出さなくてはならないと思った。左手でスウェットのポケットの辺りを握りしめていたら、握られていた部分が汗でぐっしょり濡れて変色していた。
 電車を降りてから男の住む市営マンションを見つけるのに思っていたよりも時間がかかった。夜中に一度歩いただけで、しかもその時は男に見つからないように気をつけることで精一杯だったから無理もないことだった。間違った道を何度も行ったり来たりしてやっと例のマンションを見つけた。日の光に照らされたマンションは暗闇の中で見るよりもずっとさびれて見えた。壁面の暗灰色が男の醜さを表しているようで気味が悪かった。

 
                 ○

 
 扉の向こうから母の声が聞こえた。豚みたいな声。人間というものはあれをするとき、こんな声を出すものだろうか。学校でそんな話ばかりしている下劣な奴らがたくさんいる。母もそれと同じくらい下劣だったということだろうか。もはや母なんてものではない。ただの女だ。それも豚みたいな声で鳴く女だ。
 そう思ってはみても、僕はどこかであの醜い男に嫉妬を感じていた。あの男は母に快楽を与えている。僕は今まで母に何を与えてきただろうか。精一杯、僕の中では精一杯、母を愛してきたつもりだった。母を失ったら僕に残るものは何もないと分かっていたから。それなのに母は僕を捨てて、あんなに醜い男のもとへと走って行った。男が母に与えていたものは何だったのか。男が母に与えることができて、僕が母に与えることができなかったもの。それがこんなに汚い快楽ということなのか。もし母が本当にそれを求めているというのなら、僕だって母を穢してやれる。これからは僕が母に豚のような喘ぎ声をあげさせてやるのだ。パンパンに膨れ上がった性器を意識しながら僕はインターホンを押した。
 ドアから顔を出した男を突き飛ばして、僕は部屋の奥へと駆け込んだ。母は何が起きたのかわからず呆然とした表情を見せた後、我に返ったのか急いで裸の体を毛布で隠した。僕は獣のような唸り声をあげて母の体にむさぼりつき、毛布を払い、押さえつけた。世界から音が消えた。赤ん坊の時以来初めて、母の乳首にしゃぶりついた。何も聞こえない。どうして母はさっきみたいな声を出してくれないのだろうか。僕よりもあの醜い男に穢される方が好みだとでもいうのだろうか。

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