小説

『呼吸をするということ』武藤良太(『花さか爺さん』)

 はっとした私は、ベッドに腰を下ろしたまま姿勢を正し、改めて咲さんの瞳を見つめてゆっくりと繰り返した。
「咲さん、咲さん」
 すると咲さんは、葡萄のような大粒の涙をぽろぽろと流しながら私に言った。
「ぜんぶごめんね、いつもむりさせちゃってごめんね、ありがとう、かずきさん、かずきさん……」
 ゆっくりと発音される咲さんの声を、私は必死で聞き取ろうと努め、一つ一つの単語を奥歯で何回も噛みしめた。3度目に私の名前を繰り返そうとした咲さんを、私は精一杯抱きしめて、耳元で何度もごめんと繰り返した。私達のわだかまりや、病室特有の清潔な臭いは、思い出のコーヒーに砂糖の様に溶けていった。窓辺に座る桜も、今日は一段と愛おしく見えた。少し疲れたと眠りに落ちる咲さんの寝顔と、少し微笑んだ口元を見たのはこの日が最後となった。病院からかかってきた電話を受けた夜の事は今でも思い出せない。

 
「一樹さん、一樹さんってば」
 咲さんが私の体をゆすった。ぱっと目を開けると、私をのぞき込む咲さんの顔が見えた。
「気持ちよくて寝ちゃったのね。こんなお天気がいいと私も眠くなっちゃうわ」
 春のような草原の上、咲さんはぐいっと背伸びをする。いきいきと動く天使のような咲さんは、膝の上で眠りこける私の前髪を優しく撫でてそっとつぶやいた。
「私ね、本当に幸せなの。ずっとこうしていられるような気がするの」
 それは良いと、私が微笑み返すと咲さんはこう付け足した。
「私ね、一樹さんにお礼をしたいの。きっと喜んでくれると思うの。でもね……」
 ここまで言うと、一瞬何かためらった表情を見せた。暖かい風が無言の私達を通り過ぎると、咲さんは大きく深呼吸をして私に言う。
「今の私を愛して欲しい、今のあなたを愛して欲しいの」
 咲さんの真剣な目と見つめ合ってから、私は笑顔で大きく頷いた。それを見て安心したのか、ニコリと笑って、春の風に溶け、咲さんは草原と共に私の前から消えてしまったのだった。

 
 底冷えで目が覚めた。

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