小説

『呼吸をするということ』武藤良太(『花さか爺さん』)

 絡みつくように桜は舞っていく。そして、地面をけり上げるたびに、花弁は何度でも、何度でも巻き上がった。今、この瞬間の咲さんを私は愛している。
 約束は守るよ、咲さん。

「あぶない!」
 義兄さんの声が、耳から神経を伝い、脳を大きく揺らした瞬間、目の前に一台のマイクロバスが現れた。
 私の体が驚いた拍子に後ろへ倒れていく。体の傾きが増すごとに、今まで遡った幾年もの年月を、一気にとっていくように、足の力が抜け、その場に尻餅をついてしまった。その衝撃が体中を駆け巡ったかと思うと、私は何も感じ取れなくなってしまった。辺りは闇で包まれ、何も見えないし、何も聞こえない。指先に触れるものも何もない。暗闇の中、桜の木を必死に探した。さっきまで、たしかに握りしめたあの桜を。
 私は嗚咽交じりにつぶやき続けた。
「桜が咲いていたんです、歌が聞こえたんです、桜が咲いていたんです」
 ふと、肩に微かな暖かさを感じた。私の目の前に、運転手らしき人と、義兄さん夫婦が見えた。私が脱ぎ捨てたコートやマフラーを肩にそっとかけてくれたらしい。混乱して震える私に、義姉さんが優しく声をかけてくれた。
「……一樹さん」
 目を真っ赤にした義姉さんの優しい笑顔と、背中に添えられた義兄さんの手の暖かさを感じたとき、初めて私は、辺りに広がる銀世界をこの目でとらえた。赤くかじかみ、震える指を見た。寒さで裂けた唇ににじむ、生きた血の味を感じた。そしてわかった、自分がなぜ無念を縫い込んだ黒い服に身を包んでいるのかを、どうして咲さんは歌っていないのかを、どうして棺桶の咲さんの横に、クマのぬいぐるみがあったのかを……私は、今まで見つめてこなかった私自身を感じた。
 かけがえのない家族の名前を振り絞ると、私はあふれ出る涙を止める術がわからず、すっと天を仰いだ。泥交じりの雪が染みこんだ、薄汚れたYシャツで何度も頬をぬぐった。
 “さよなら”と、天国の2人に伝えようとしたが、冷え固まった横隔膜からは、かすれた声も出なかった。ガラスに息を吹きかけたように、私の吐息は青い空に広がっていった。

 2人がもういないという事実が、私の中の彼女達の呼吸を、確かな物へと変えていった。
 意識して呼吸をすると息苦しく感じる。幸せも同じではないだろうか。
 私達の幸せは、無意識に呼吸をするということだ。

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