小説

『呼吸をするということ』武藤良太(『花さか爺さん』)

「すまないが、今から買い物に出かけてくる」
 後ろに手を回し、エプロンの結び目を解こうとするのだが、妻の様子がどこかおかしい。
 今度はゆっくりと買い物へ行ってくるよと、言ったのだが、不安そうに顔を歪めたまま辺りを見回すだけだった。どうやら何かなくしてしまったらしい。
 妻は、大丈夫だと、不自然な笑顔でゆっくり伝えようと私の方に振り向いた。
 その時、妻の目が大きく見開き、一目散に縁側に向かって駆けようとした。
「あぶない!どうした!」
 駆けだす妻を咄嗟に腕で受け止めたが、妻は必死にもがき、縁側へ行こうとする。
「あうあ!」
 外に向かって叫んだ妻の声のようなものに、私も外へ視線を走らせた。
 そこには、洗濯ばさみで耳を挟まれた、クマのぬいぐるみがぶら下がっていた。
 妻が帰る前に、桜を部屋に入れておいてやるつもりだった。しまったと、頭の中で一瞬、自分の非を嘆いている隙をついて、妻は私の腕を潜り抜け、クマのぬいぐるみに向かって駆けた。
 すかさず再度静止しようと振り返ると、クマのぬいぐるみに手を伸ばしながら、地面に飲まれていく妻の足の裏が見えた。

 
 病床の妻は、弱っていた。
 個室を用意して、周りを気にせずにいられるように最大限の配慮をした。
 窓からは公園が見え、子供たちが無邪気に遊ぶ声が微かに聞こえるが、その声をすべて反射しそうな純白な壁で部屋は包まれており、妻もまた、まっさらな表情のまま外を眺めるだけだった。私が何を話しかけても笑顔を見せてはくれなかった。まるで笑顔の作り方を忘れてしまったようにも見えた。お見舞いで持ってきたリンゴにも手を触れてはくれなかった。私が帰る頃、一口大に取り分けられた小さなリンゴは、窓辺に置かれた桜の影で覆われ、毒りんごのように黄ばんでいた。
 同じ日の晩、一人食卓で、妻が残したリンゴにかぶりついていた。テレビをつけたが耳に入らないし、今噛んだばかりのリンゴでさえ味を感じない。消えそうな妻の表情や、今までの後悔を頭の中から消し去ろうとするたびに、音のない悲しみが目から零れ落ちた。
 それでも私は、妻に会いに行った。いつか、妻が笑ってくれると信じて。

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