小説

『呼吸をするということ』武藤良太(『花さか爺さん』)

 鼻先は、冷凍保存した鶏肉に触れている様な程冷え切っていたが、胸の内は咲さんの夢のおかげか妙に暖かい。
 今朝何を食べたかも意識せず、外を見るでも見ないでもなく、呆けて昨夜の夢を引きずったまま、火葬場までの山道を親族と一緒にマイクロバスで登って行った。しばらくうねりながら登っていくと、開けた場所に、火葬場がたたずんでいた。妙に広い駐車場と、おまけのように生える植栽、飾り気のないコンクリートの外観は、寂しさをそのまま形にしたようだった。
 マイクロバスを降りて早々、私たちは火葬場のスタッフに案内されて、空っぽのエントランスから伸びる短い廊下を通り抜けた。開けた空間に鋼鉄の扉があり、扉の前には、鉄の台車に乗せられた棺桶があった。火葬場のスタッフから、最後の挨拶ですと促されると、皆、順番に棺桶の蓋に施された小さな窓から、咲さんの顔を覗いていった。御経を読み上げる平坦な声と、涙をすする音、親族達の本当にきれいな顔だねという、消えてしまいそうな会話だけが空虚な部屋に響いた。しかし、私は、これが最後の別れの挨拶になるとわかっているのだが、一滴も涙を流せなかった。また、すぐに咲さんに会えるような妙な確信が私から離れなかったからだ。
 お坊さんの御経が終わると、鉄の台車に乗せられた棺桶がゆっくりと重い扉の奥にしまわれていく。皆、口々にさよならという中、私は小声で“またね”とつぶやいていた。

 火葬場のスタッフが、私達を20畳はあるであろう、広い畳敷きの控室へ案内した。お骨になるまでに時間がかかるので、1時間程ここで休憩をして欲しいとのことだった。親族は皆、革靴や黒いヒールを玄関で脱ぐと、部屋に行儀よく並んだ立派な机を囲んでいった。女性たちがお茶の準備に立つ中、義兄さんがスタッフに、煙が上っていくところを見ることができないのかと聞いていた。私は茶菓子を各テーブルへ運びながら、2人の会話に聞き耳をたてた。話によると、火葬場より離れた場所から煙は出るので、ここから見ることはできないとの返答だった。しかし、今から15分後程度で煙は上がるだろうとスタッフは言い残し、さっと自分の持ち場へ戻っていった。
 親族達は、お茶や茶菓子をつまみながら、また昔話に花を咲かせていた。彼らの思い出は尽きないらしい。いや、半分は同じ話を繰り返しながら、何回も咲さんという暖かな余韻に浸っているのだろう。30分ほど経つと、義兄さん夫婦が私にタバコを吸いに行こうと外へ誘った。タバコを吸うことが本当の目的ではないことをわかっていた私は、その誘いを快く承諾した。

 冬の山はやはり寒い。

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