次第に、妻の身の回りの世話のためではなく、一緒に話をしたい一心で会いにいくようになっていた。車で病院へ来る途中、曲がる角を間違えてしまった話、手先が不器用で鶴が一羽もきれいに折れなかった話、どんな些細なことでも、真っ白いキャンバスのような妻に話続けたのだった。
数か月経ったある日、私はあるサプライズを思いついた。
「なぁ、今日はプレゼントを持ってきたよ」
外を眺めて静かに横になる妻にそう言うと、紙袋の中から水筒を取り出し、中身をそっとマグカップに注いだ。妻は鼻をピクリと動かすと、驚いたようにゆっくりとこちらへ体を反転させた。
「わかるかい?昔通ったあそこのコーヒーだよ。マスターの息子さんに事情を話したら、喜んで入れてくれたよ」
まっさらな妻の表情に、驚きの黄色が水で溶いた水彩絵の具の様に薄く広がっていく。
ゆっくりと上半身だけ起き上がると、妻はそっとコーヒーに手を伸ばした。熱いぞという私の言葉に小さく頷くと、香りをすっと鼻へ入れ、小さな吐息で少しずつ冷ましながら優しく口に含んでいった。
温かいコーヒーを口に運ぶ毎に、幸せそうな赤色や、なごんだ桃色が、妻の顔に塗り重ねられ、春のような柔らかい表情になっていった。
恥ずかしながら、この時の私は、そんな妻に見とれていた。まじまじと妻を見たのは久しぶりかもしれない。そっと丸椅子から、妻のベッドに腰かけ直すと、妻の目をじっと見つめた。桜並木をくるりと踊った時より、皮膚がたるんでしまっているが、黒々とした瞳には、同じように年を取った私が、くっきりと映っていた。私は大きく深呼吸をすると、たった一言だけ妻にぽつりと言ったのだった。
「咲さん、仲直りがしたい」
両手でコーヒーをつかんだまま、咲さんは固まってしまった。
恥ずかしさのあまり、駄目だよなと、ベッドから丸椅子へ戻ろうとすると、咲さんは、私のシャツの裾を力強くつかんだ。私と視線が合うと、ゆっくり裾から手を離し、代わりに人差し指を私の前に力強く突き立てた。
……もう一度?
コーヒーをもう一杯だと思った私は、空のマグカップに手を伸ばすと、咲さんは首をぶるんと横に振った。息を吐きながらゆっくり私の目の前まで体を乗り出し、一音ずつ、はっきりと自分の気持ちを発した。
「なまえ」