小説

『呼吸をするということ』武藤良太(『花さか爺さん』)

 義兄さんが私の肩をそっと叩いた。ふと掛け時計に目を向けると、針は22時を指していた。私は火照った体を冷ましに風に当たろうと、片方がひっくり返った草履を履いて外へ出た。息は白く揺らめき、頭上に広がる星々からカシオペア座を見つけたとき、先ほど喉を通した河童巻きが、夕飯であったことに気が付いた。大きく深呼吸をした後に、ぶるりと身震いをさせて玄関へ駆け込んだ。草履のかかとをきれいに揃えると、冷え切った廊下になるべく足を付けぬよう小走りで引き返した。頭が岩の様に重く感じた私は、居間ですっかり出来上がった親族達に、今夜は先に失礼しますと一声かけた。すると義姉さんが、今夜は下の階はうるさいからと、居間から一番離れた2階の角部屋へ案内してくれた。ギシギシと軋む階段や廊下を進み、年期の入った厚い引き戸を開けると、ここは咲が子供時に使っていた部屋なのだと、義姉さんは私に教えてくれた。部屋には、咲さんが使っていた箪笥、壁のペナントは当時のままで、柱の傷は、幼い咲さんの背まで物語っていた。今夜はゆっくりしてくださいと、義姉さんは私を部屋に一人残し、下へ降りて行った。
 一人残されたこの部屋が、なんとも居心地がよく感じたのは、澄んだ空気と、周りを取り囲む咲さんの面影のせいだろう。下階からは微かに笑い声が聞こえたが、疲れ切った私にとっては、求めていた休息の場所だった。何枚も厚手の毛布を重ねて包まり、冷える足先をこすり合わせると、私はあっという間に眠りに落ちてしまったのだった。

 
 頭が痛く、体は重い、疲れた。
 鏡を見るたびに私は誰だと問いたくなる。この笑顔が似合わない町役場の受付のような男は誰だ。その汚れが染みついたエプロンはどうしたのだ。私はいつも誰のために何をしているのだろうか。そんな思考が脳内を駆け巡り、神経を逆なでて回る度に、めまいと吐き気がした。今となっては、散歩へ出かける妻を見送った後の一人になれる時間でさえ、夕飯の献立や掃除、洗濯で、日々、川のように流れていくのだ。妻が頼んだ訳でもないのに、私は何でも自分でやろうとした。妻がたまに心配そうな顔で私の様子を伺うようになったが、恐らく、今まで家事の一つもしなかった私が、台所に立つ光景に慣れていないだけなのだろう、きっとあの咲さんなら、私に笑いかけてくれるだろう、そうやって過去の咲さんを思い出しては、家事に勤しんだ。
その日は珍しく、私は疲れ果てたのか、死体の様にリビングの床でうたた寝してしまっていた。目を開くと心配そうに私をのぞき込む妻の顔があった。はっと起き上がり、時計を見ると、時計の針は17時過ぎを指していた。
「ごめん、寝てしまった。晩御飯これから作るからね」
 私は体制を起こす僅かな時間で、喉の奥で優しい声を作り上げ、懐からマジックの様に取り出したあの笑顔のお面でおどけてみせると、さっと台所に立ち、冷蔵庫を開けた。ごみの回収日が書かれたカレンダーや、書きなぐったミミズのようなメモだらけの扉とは裏腹に、中身は賞味期限切れの卵一つない状態だった。

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