小説

『夢みるピアノ』草間小鳥子(『ピアノ』)

 開会式がなんだ、お友達がなんだ!
 ピアノを弾くのは、こんなにたのしいことなのです。気持ちがすくのです。わたしの心は、ぽーんと空高く飛んでいくようでした。
 ある日のこと。
 (あ、『トロイメライ』)
 林の奥から風にのって届いた旋律に耳をすまし、思わず足を止めました。
 シューマンの『トロイメライ』は、穏やかでなんともいえない安らぎに満ちた曲なのです。トロイメライ=夢見心地という名まえがぴったりでした。
 しかし、この演奏は、なんて切なげなんでしょう。弾いているのは、さくらでしょうか。
 ピアノは正直です。なにか良くないことがあったに違いありません。わたしはおそるおそる、竹林に踏み入りました。ぽっかりひらけたところに、あの洋風のお屋敷が現れます。鉄格子の門は錆びていないし、石造りの壁もすすけてはいません。出窓のレースカーテンが風をはらみ、その向こうにさくらのうしろ頭が見えました。すこし安心しましたが、気を引き締めます。だって、おそらくこの場所は、わたしのいま生きている時間ではないのですから。
 深呼吸をして玄関の呼び鈴を鳴らすと、演奏が止みました。ドアを軋ませ、顔を出したのはさくらです。スリップ姿でもなく、サマードレスでもなく、きちんと制服に身を包んでいます。
 「せっかく来てくれたところ悪いんだけど、もう時間がないの」
 弱々しい笑顔で、さくらはわたしに言いました。
 「もうじき、ここを出ていかなくちゃならないから」
 さくらは爪を噛んでピアノの方を振り返りました。あの割烹着のお姉さんの姿はありません。お屋敷はいやにがらんとしていて、人の気配がないのです。
 「お父さまは東京の病院だし、お母さまは先に実家の叔母さまのお家へ行っているの」
 「ピアノは?」
 尋ねてから、後悔しました。
 だって、ピアノはきっと置いていかれるのです。何年ぶんものほこりを積もらせ音を失った、その姿をわたしは見てしまっているのですから。学園史を読み、知ってしまったのですから。ずいぶん昔にこの辺の土地をおさめていた名家の主人が肺病を患い、治療のやりくりに困って泣く泣く土地を手放したといういきさつまで。

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