小説

『夢みるピアノ』草間小鳥子(『ピアノ』)

 すっかり白くなった口ひげをこすり、おじさんはカンカン帽をぐっと深くかぶり直しました。 
 もうおじさんではなく、すっかりおじいさんです。
 「いいピアノだったのにねえ……」
 わたしたちは、竹林の奥の廃屋にきていました。音楽の先生も一緒です。すみませんね、うちの備品でもないのに、と先生が頭を下げるのを、
 「いえいえ、このお宅にはずいぶんとお世話になりましたから。ボランティアみたいなものですわ」
 せっかくです、修理が済んだら学校で使われるといいですよ、ピアノも喜びますわ、おじいさんは笑いました。それから塗装のはげてささくれたピアノを撫で、おじいさんは、わたしにだけ聴こえる声でこんなことを言ったのです。
 「お嬢さん、ピアノの夢に迷い込んだんでしょう?」
 え、とわたしが尋ねると、おじいさんは鍵盤を押してみたり叩いてみたりしながら、歌うように言いました。
 「あー、ピアノはね、弾いてやらんと、夢を見るのですわ」
 たとえば、とピアノの裏にまわりこみながら、おじいさんは続けます。
 「たとえば、ずぅっと忘れていたのに、メロディを聴くと思い出すことってありませんか?それを聴いていた時の景色や空気の香り、気持ちなんかが、ぱあっと鮮やかに」
 わたしにはわかりません。だって、まだ、何かをずぅっと忘れてしまうほどたくさん生きていないんだもの。おじいさんの節くれて皺だらけの手を見つめます。働き者の職人さんの手だ、わたしは思いました。
 クラクションが鳴り、窓越しにトラックがバックしてくるのが見えました。運転席から乗り出して、
 「父さん、ここに停めるよ」
 と顔を出したおじさんは、口ひげはないけれど、わたしがいつか門の前でぶつかったおじさんにそっくりです。
 「あー、吊り道具と角材を持ってきとくれ」
 おじいさんは腰を上げてトラックへ叫び返し、
 「耳と腕が衰えんうちは、あたしゃ現役なんでね。おちおち夢も見てられませんわ」
 そう言うと、まるで誰かの背中を叩くように、ピアノの蓋に手を乗せました。夢、ときいて、わたしはこのあいだ見た夢を思い出し、指が勝手に動きました。
 たたたたたた、トトトトトト、テテテテテテ、たったたん!
 あの時のたのしい気持ちがよみがえり、わたしは軽くスキップしました。

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