小説

『夢みるピアノ』草間小鳥子(『ピアノ』)

 しかしさくらは腰に手を当てて鼻を鳴らし、
 「しばらくの間、お別れね」
 と言い、
 「でも、すぐに迎えに来るもの」
 と早口で付け足しました。
 「すぐに迎えに来るから」
 もう一度、自分に言い聞かせるように、しっかりと。ところが、口調とは裏腹に、さくらの輪郭はぼんやりと霞みはじめました。ソックスに包まれたつま先がほどけるように消え、頭のてっぺんもあたりの空気に溶けてしまいます。たちまち壁は黒ずみ、絨毯は色あせ……
 わたしの目の前には、あの、オンボロのピアノだけがありました。
 『すぐに迎えに来るから』
 さくらの言葉を信じ、放られっぱなしのさびしい廃屋で、いまもピアノは待っているのでしょう。さくらが帰ってきて、また賑やかに鍵盤を叩いてくれるのを。わたしは、塗装のはげたピアノをそっと、撫でてやりました。涙がこみあげ、ポケットに手を入れました。すると、ハンカチでないものに触れたのです。
 (何だろう)
 取り出してみると、それは紙切れでした。
 『あー、ピアノをじょうずに弾く、よい指ですな』
 『あー、おたくのピアノも、具合が悪くなったら、あたしを呼んでくださいな』
 思い出してはっと息をのんだ途端、手のなかで紙切れはほろほろと崩れ、まるではじめからなかったように、すっかり消えてしまったのです。でも、おじさんの口ひげがたのしそうに動くのをわたしは覚えていました。
 『ナラセ、ケンバン。バッハ・ショパン・サイコー』
 家に飛んで帰ったわたしは、受話器を握りました。
 「バッハ、ショパ……ン……サ・イ・コ・オ。」
 呼び出し音のあと、受話器の向こうから聴こえてきたのは、しわがれたあの声でした。
 「あー、もしもし。ナルセ楽器店ですが」

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