わたしはうつむいて口を閉ざし、あの日起きた不思議な出来事は誰にも言うまい、と決めました。なぜか言ってはいけないような気がしたのです。言葉にすると、全てがうそっぽく、陳腐な作り話になってしまいそうで。わたしは、あのぴったり息のあったピアノとの共演を、胸の高鳴りを、ずっと心にとどめておきたい、と思いました。
それからも、帰り道、林の奥からピアノの音が聴こえてくることがありましたが、わたしは立ち止まらず、さっさと通り過ぎました。もしまた音をたどって行って、目の前にオンボロのピアノとお屋敷があったら……と思うと、とても確かめに行く気にはなれませんでした。
さくらはきっと、わたしとは別の時間を生きているのです。
(きっとピアノが、交わるはずのないさくらとわたしの時間を結びつけたんだ)
そうわたしは思いました。
図書室の書架整理で見つけた学園史には、音楽祭独奏での歴代の曲目と奏者の名前が綴られていました。さくらの名前はどの年代にも載っていません。
すると、本棚の向こうから、お友達のお喋りが聴こえてきました。
「音楽祭の開会式、一年生代表はあのこじゃなくて、やっぱり佐伯さんがよかったね」
「えぇ、これまでもずっと佐伯さんだったし……きのうの練習でも、あのこ、何度もつっかえてたもの」
「本番もあれじゃあ、ねぇ……」
さっと顔が赤くなるのがわかりました。わたしの演奏がひどいのは、わたしが一番よくわかっています。うまくやろう、失敗しないように、お友達の期待に応えられるように、そう思えば思うほど、指がこわばってしまうのです。わたしはうつむき、学園史のページをすっ飛ばすようにめくりました。ところが、あるページに目がとまりました。いまから何十年も昔の出来事です。わたしはその記事を端から端までじっくりと読み、しずかに本を閉じました。
その夜、わたしは夢を見ました。
林の奥のお屋敷で、さくらとわたしは並んでピアノの連弾をしているのです。たたたたたた、トトトトトト……曲は簡単ですが、連弾というものはなかなか難しく、練習を重ねないとすぐにばらばらの不協和音になってしまいます。しかし、さくらとわたしの息はぴったりでした。
たたたたたた、トトトトトト、テテテテテテ、たったたん!
スタッカートがばっちり決まり、わたしとさくらは思わず顔を合わせて笑いました。なんてたのしいんでしょう! 心なしか、ピアノの鍵盤もいっそうぴかぴかと輝き、わたしたちの指をはじき返します。