小説

『夢みるピアノ』草間小鳥子(『ピアノ』)

 いいから、いいから、と背中を押され、わたしはピアノの椅子に座りました。どっしりとした、いいピアノです。真新しい白と黒に塗り上げられた重めの鍵盤、涙のあとが残る譜面台、固いペダル。
 「調律したばかりよ」
 さくらが胸を張り、ぴかぴかのピアノを撫でました。
 鍵盤を押すと、深い音がぽーんと跳ね、壁に吸い込まれます。防音壁でしょうか、ピアノを弾くためにこしらえた部屋だとわかります。
 「さ、はやく」
 わたしは大きく息を吸い、最初の和音を鳴らしました。この低い和音から、一気に曲へと滑り込みます。フッ、とおなかで息を吸い、テンポの速い第一楽章を弾き始めました。はじめは弱く、徐々に強く。
 たちまち、わたしは世界でたったひとりになります。
 まわりには、誰もいません。何もありません。さくらも、割烹着姿のお姉さんも、ソファも石造りの壁も、竹林も校舎も。どこもかしこも真っ暗ななかで、ピアノとわたしだけが星のように輝いているのです。
 苦手なオクターブの小節がやってきました。集中力が乱れてつっかかりそうになったところで、耳元でささやく声がしました。
 『はじめは親指に力をこめて』
 さくらの声です。すると、驚くほど自然に指が踊りました。
 『つぎは、小指を長めに押さえる』
 親指、小指と、かわるがわるアクセントをつけながら、オクターブの難所を通り過ぎました。先生のお手本のように、いえ、もっとわたしが、こんなふうに弾きたかった理想に近く。
 (できた!)
 そのまま転調して朗らかな第二楽章へ、つづいて嵐のような第三楽章。ピアノとの息はぴったりでした。鍵盤が指に吸いつくように、次の音へ、次の音へと誘われます。とても心地よく、わたしはまぶたをおろします。まぶたの裏に、白く輝く鍵盤とその上を躍る自分の手が、線画のように浮かび上がりました。
 『その調子』
 さあ、最終楽章です。
 それまでの雰囲気とはうってかわって、しずかな、しずかな曲調になるのです。日の出のような、雲間からさしこむ光のような、神々しささえ感じます。深くペダルを踏み込み、柔らかく手首をしならせます。さくらの声がささやきました。
 『最終楽章は、どんなイメージ?』

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