ショパンの『幻想即興曲』。
さくらが開会式で弾くはずだった曲。客席のざわめきが耳に届きましたが、すぐにピアノとわたしはそこから遠ざかってゆきます。
ふたたび真っ暗なしんとした世界。
テンポの速い第一楽章を、はじめは弱く、徐々に強く。オクターブの小節は、はじめ親指に力をこめ、二回目は小指を長めに押さえます。
さくらがそっと席を立ったのがわかりました。
土地を売った後、一家は東京の病院に主を残し、夫人の実家のある関西へ移ったそうです。
転調して朗らかな第二楽章へ。
治療のかいあってご主人は病から回復し、妻子の待つ関西へ行ったそうですが、高い注射や薬のおかげで、一家はすっかり貧しくなってしまいました。
つづいて嵐のような第三楽章。
お医者さまから安静を言い渡されたご主人のかわりに、夫人が働かなくてはなりません。幸い女子大を出ていた夫人は、地元の小学校の教師となり、一家を支えたといいます。
『あたしは学校のない週末、ピアノの家庭教師をやったのよ』
さくらの声です。
『うちにはもうピアノを持つ余裕はなかったけれど、いろんなお家でピアノを弾けることが、とてもたのしかった』
最終楽章です。わたしの指は一音一音、丁寧に奏でました。
あたらしい朝のようなすがすがしい旋律です。嵐になぎ倒されめちゃくちゃになった町が朝日で洗われているさまを心に描き、わたしはピアノを弾きました。
そう、ここは、「再生」の章なのです。
ぴかぴかに塗り直され、側面に金色の文字で『寄贈』と記されたピアノは、職人さんの手で生まれ変わった、あのオンボロのピアノなのです。流れるように折り重なる和音をペダルで守り、最後の一音を小指で押すように奏で、わたしは鍵盤から手を離しました。
一瞬の静寂ののち、割れるような拍手によって、わたしは元いた世界へ引き戻されました。ピアノとわたしはスポットライトを浴びており、音楽の先生が慌ててこちらへ走ってくる姿が目に入りました。
音楽祭が始まるのです。
額の汗をぬぐい、傍らのピアノにそっと手を添え、
(いつか今この瞬間が、夢のように思い出されることがあるのかしら)
そんなことを、ぼんやりと思いました。