小説

『コンの銀杏』鴨カモメ(『ごんぎつね』)

 コンが初めて見た人間は母狐の化けた美しい女だった。母狐は近くにあった葉をもぎると額に乗せてくるっと身を翻した。すると次の瞬間、狐の姿は人間へと変わっていたのである。母狐はその姿でコンを抱き上げると頭を優しくなでた。コンを見つめるそのつり目がちの丸い瞳は、狐の時と色も形も変わっているのに、不思議と母狐の面影を残している。
「これが人間よ。人間はとても危険なの。よく覚えておきなさい」
 これは後になって分かったことだが、村にこれほど美しい女はいない。しかし、人間を初めて見たコンは、その美しさに人間が野蛮な生き物であるとは到底信じられなかった。
「でもさ、母ちゃんみたいに変化していけば友達になれるんじゃないかな! オイラ友達になりたいな」
 兄妹のいないコンが友達欲しさに無邪気に言うと、母狐はコンの鼻先に長い指を近づけてチョンとつついた。
「かわいい子狐ちゃん、人間は狐の命を奪うのよ。だから本当に必要な時以外、この術は使ってはいけませんよ」
 母狐はそう言って微笑むと、またすぐにいつもの狐の姿へと戻ったのだった。

 コンは山へ帰ると握りしめていた銀杏の葉を額へと乗せた。
「母ちゃん、今が本当に必要な時なんだ。力をかしておくれ」
 そう念じると、たちまちにコンの身体は四方へとグイーっと引っ張られ、視界が高くなった。そして葉の色と同じ若草色の袖からはすらりと長い手が伸びている。コンは慣れない二足歩行でよろよろと近くの池に行くと、そこに映った姿を見て驚いた。
「母ちゃん」
 水面には母狐が変化した人間にそっくりの美しい女の姿が映っている。コンは懐かしいその姿に泣き出しそうになるのをこらえた。
「しっかりしなきゃ。待ってろよ、兵十!」
 コンは自分の両頬を叩き、気合を入れた。

 一方、母親を亡くし、ひとりになった兵十は家の中のことなどほとんどせずに、毎日、畑に行っては寝床に戻るのを繰り返すだけの日々だった。外との繋がりといえば、たまに加助がやってきて、一方的にペラペラと話して帰って行くことくらいであった。
 そんな兵十の生活は、謎の女が訪ねて来たことで一変した。いや、それは訪ねて来たというよりも押しかけてきたと言った方が正しい。女は突然やってきたかと思うと、ずかずか家に入り、散らかった家の中を見回して、手早く着物にたすきをかけた。

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