小説

『コンの銀杏』鴨カモメ(『ごんぎつね』)

「これからは亡くなったお母さまの代わりに、私がお世話をしますので」
 女の正体はもちろんコンであるが、そんなことを知らない兵十は、女の強引さにただただ呆気に取られた。そして気付いた時には家の中をピカピカに磨き上げ、温かい飯の支度が目の前に整っていた。
「おい、俺は世話をやいてもらう義理などないが……」
「あぁ、お礼なんていいんですよ! 気にしないでくださいな!」
 やっとのことで声を出した兵十の言葉は、すぐに気持ちの良い高い声にかき消された。うまそうな味噌汁の香りが兵十の腹の虫を呼び覚まし、主人の声より大きな声で鳴く。兵十が気まずそうに腹をさすりながら女を見ると、女もまた物欲しそうな顔で飯を見つめている。
「一緒に食うか?」
 兵十の一言で花が開くように女の笑顔がはじけた。そしてこれも何かの因縁であろうと、死んだ母親の茶碗に女の分の麦飯をよそい、小さな居間にふたり分の膳を並べた。

「ところでお前さん、名は何というんだ?」
 コンは兵十に聞かれると、口の中に入っていた飯をほとんど噛まずにゴクリと飲み込んだ。
「コ、コンともうします」
 コンが自分の名を誰かに名乗るのは生まれて初めてのことだった。
「……紺か」
 兵十はコンの凛とした佇まいが『紺』という名に合っていると妙に納得していた。そして、目線を上げるとずっと目を合わせることを避けていた視線が、ようやくコンの瞳とぶつかった。コンの茶色がかった瞳は、キラキラと、ところどころ金色に輝いている。兵十はそれを見て、今日初めて会ったその女のことを、よく知っているような不思議な気分になった。
 兵十があまりにじっと見つめるので、コンは少し慌てたように「そろそろ帰ります」と言ってそそくさと家を飛び出た。
 一番星が輝く薄暗い中で、銀杏の木は心配するかのようにサワサワと葉を揺らした。
「これでいいんだよ、母ちゃん」
 コンは自分に言い聞かせるようにそうつぶやくと、再び小さな狐の姿へと戻ったのだった。

 それからコンは毎日、兵十の身の回りの世話をした。あの兵十のところに天女のような美女が来たとあって、村人たちは皆驚いていた。

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