それから、あやめは手を休めることもしなかった。
二人が目を覚ましてくれると信じて、陽が出ているうちはさることながら、夜通し蝋燭に絵を描き続けた。筆は、穂首が割れ、軸はあやめが握る形に擦り減ってひびまで入っていた。だのに、彼女はその手を止めることはない。
最後の鱗をすり鉢に入れたとき、とうとう筆は折れてしまった。豊かだった穂首の毛は、今やあやめの尾を映したように無残に数が減り、握り続けていた軸には垢と血が刷り込まれていた。
それを、老夫婦に告げることも叶わず、あやめは鱗の粉に指を浸けた。筆ほど繊細な絵は潰れ、ただ真っ赤な、艶やかな蝋燭にしかならなかった。何層にも塗り重ね、そこで作ったばかりの赤い塗り粉はなくなってしまった。あやめの細指でも、塗ってしまえば一本分にしかならなかったのだろう。
真っ赤に染まった指と、真紅に塗り上げられた蝋燭。
工房の小窓から朝日が差し、同時に入り江に合わせてうねる沿路を、一台の馬車が曲がって来るのが見えた。
あやめは泣いた。声を殺して、袖を涙で濡らした。あの馬車の荷台には檻が備え付けられていた――あやめを入れるための檻が。人魚は確かに人間ではない。でも、他の魚や海獣よりも、ずっと人間に近く、いや、近いはずだった。だから、この老夫婦に育ててもらえたし、娘として可愛がってもらえたはずだった。
あやめの悲痛な嗚咽を叩き潰すように、部屋の襖は乱暴に開かれ、屈強な男が二人、土足で入ってきた。奥には香具師が立ち、老夫婦に一袋の金を数えさせていた。
「おじいさま! おばあさま!」
叫んだ。腕枷を嵌められ、肩を強い力で抑えられながらも、あやめは必死に身をよじって叫んだ。
助けて、助けて、助けて!
しかし、二人は彼女に一瞥をくれただけで、すぐに背を向けた。
ここのつ、ぬりてはきんによい
男たちに引きずられながら、あやめはぼんやりと思い出していた。ここに来た最初の日のことを。本当の母親の胸に抱かれ、母は口ずさんでいた。子守唄の一つでも歌うように、このあやめの脳裏から焼き付いて離れない歌は、そうだ、母が歌っていたものだった。
ひとつ、ぬりてはおやのため
ふたつ、ぬりてはうみのため
みっつ、ぬりてはうみごのため
よっつ、ぬりてはいきるため
いつつ、ぬりてはあやまちて
むっつ、ぬりてはたちぬため
ななつ、ぬりてはおもかれて
やっつ、ぬりてはおのがため
ここのつ、ぬりてはきんによい
そして――。