小説

『青い血、赤い鱗』東村佳人(『赤いろうそくと人魚』)

 揺れる馬車の冷たい檻の中で、あやめは怨んでいた。老翁を、老媼を、自らの母親を。
 母は知っていた。人間に育てられたあやめが、最後にはどうなるかを。人のよさそうな老夫婦が、一体どんな仕打ちをするかを。だのに、母はわたしを陸に置き去りにした。子を持つ親のすることではない。何度も何度も、鉄の檻を叩いて泣きじゃくった。
 その声は、うららかな歌のように、風に乗った。
 強い風が運んできた、分厚い雲は空を覆い始め、にわかに降る雨は、馬車の幌を恨めしく叩いた。

 夜半過ぎ、夕刻から降り始めた雨もいよいよ激しさを増し、宮のある山の木々は、風に軋んで不気味な音を立てていた。
 一人の女が、傘も差さずに蝋燭屋の前に立ち、その扉を三度、とん、とん、とん、と鳴らした。しばらく待って誰も出てこないと、女はまた三度、扉を叩いた。
 ややあって、寝間着姿の老媼がその雨戸を開け、短い悲鳴を漏らした。女は雨に打たれて、黒く長い髪も、着物もべったりと張り付き、また肌の色が一層白いために、老媼の目には、大層不気味に映った。それから、如何とも言い難い異臭が、雨風に乗って鼻腔を突いた。どうも、この女が胸に抱く、丁字型の干物から腐臭のようなものが漂っているようだった。一瞬見えた月明りに照らされたそれは、真っ赤で、老人の手足ほども細く、しかし女はいたく大事そうに抱えていた。
「蝋燭を、売ってくださいまし」
 注意していなければ聞き漏らしてしまいそうなほど、か細い声で女は言った。
「お代ならば、きちんとはらいますから」
 客ならば、と老媼は一つ咳払いをして、蝋燭の入った箱を持ち、女の前に差し出した。
 あやめが絵を描いた蝋燭は昼のうちに、あらかた売れてしまったが、それでも数本は残っていた。女はその中から、一つ、ただ真紅に塗られたものを一本手に取り、「これを、塗った娘は?」と訊いた。
 だが老媼はかぶりを振って、「出て行ったよ」とだけ、不躾に答えた。
 女は深く項垂れ、代金を払って礼の一つも告げずに、その軒下を後にした。
 訝しがった老媼は、室内の提灯で受け取った金を確認したが、それは貨幣ではなく、同じくらいの大きさをした貝殻でしかなかった。騙された、と激昂し、急いで外に出るも、女の姿は最早何処にもなく、ただ風が強く吹き込むだけだった。

1 2 3 4 5 6 7 8 9