小説

『青い血、赤い鱗』東村佳人(『赤いろうそくと人魚』)

 あるとき、老夫婦の店に香具師が来た。南の国から、遠路はるばるこの北の地にまで足を延ばして、金になりそうな物珍しいものを探していた。男は何処で聞いたのか、はたまた工房をちらとでも覗いたのか、蝋燭塗りの娘が人間の子ではないと見抜いていた。世にも珍しい人魚の娘で、しかも容姿は淡麗、絵描きの才があるとなれば、これは手に入れぬ道理もなく、男は老夫婦に話を持ち掛けた。
 香具師が提示したのは、老夫婦が一年、丸々働いた分ほどもある金額だが、彼らは首を縦に振りはしなかった。「神様が授けてくださった」という謳い文句は、とうの昔に、頭の片隅から退いていたが、二人は、もっと値を上げられると踏み、自分らが如何にあやめを愛し、大切に、家族として扱っているかを熱弁した。
「娘を、そんな二束三文で売れるはずがなかろう。帰ってくれ!」
 老翁は去った香具師の背に塩を投げつけた。
 だが、翌日も香具師はやって来た。その翌日も、そのまた翌日も。客がいなくなる夕刻を狙って、毎度毎度同じ時間に、そして同じ話を持ち掛けた。
 老夫婦は、元は徐々に上げられるであろう金額に、頃合いを見て頷くつもりであった。対価が、およそ二年分にもなればよい、と。自身らでもがめついとは思っていたが、この先、まだどれほど長く生きるかもわからない。それに、金はあるに越したことはないのだ。多ければ多いほどいい。しかし、香具師はそれ以上、釣り上げることはなかった。代わりにこんな話を、老夫婦に聞かせた。
「人魚が不吉の象徴で、災いをもたらすことは知っておろう。最初は小さなものから、時に、人の生までも奪うそうだ。かの蛭子神が半人半獣だったように、満足に一つの身体を持たぬのは、神に忌み嫌われ、その身に呪いを受けている証拠だ。早いうちに手放さないと、今にどんな災難が降りかかるやも知れぬ」
 それがまったくの出鱈目であることは、二人にはわからなかった。香具師があまり熱心に話し、ここを訪ねるのもこれが最後と言うので、堪らず二人は、約一年半の金であやめを引き渡すことに同意した。
 月も落ちようとする、その日の晩に、あやめはそのことを告げられた。この地を離れ、遠く、南の国へ売られていく。育ててくれた老夫婦が手にするのは、幾何かの金で、まるで彼女にはそれだけの価値しかない、と言われているようだった。
 あやめは老翁の足に縋りつき、泣いて頼んだ。
「わたしめを、いずこかへとお売りになる、なんてことはやめてくださいまし。これまで以上に素晴らしい絵も描きます。もし、ここを出でいけ、と仰るのなら、その通りにいたします。ですから、何処ともわからぬ場所へ送りつけるなど――」
 乞い願うあやめを、しかし老翁は足蹴にした。香具師の話を聞き、呪いを受けた身だと信じてから、美しいあやめの四肢は、醜く邪なものに見えてしまっていた。初めから魔の顔をして近付いて来るものはいない。一人娘であったはずの、人魚のあやめは、最早厄を乗せてくる妖魔にしか感じられなかった。蝋燭の塗るために剥がした鱗の痕は、献身の証にはならなかった。

 やっつ、ぬりてはおのがため

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