小説

『青い血、赤い鱗』東村佳人(『赤いろうそくと人魚』)

 きちんと単衣(ひとえ)を羽織り、帯は三年前に包まれていた衣だった。「この子の本当の親の最後の優しさかもしれない。無下に捨ててしまうのはあまりに酷だ」と老夫婦が残しておいてくれたのだ。
 あるとき、蝋燭職人をしている老翁に、あやめは尋ねた。
「おじいさま。わたしも何かしとうございます。何か、お手伝いがしたいのです」
「あやめや。お前はわしら老人にはできすぎたほど良い娘だ。わしらはお前がいてくれるだけで十二分に助かっているのだが、何かしたいというなら、それを断ることもあるまい。お前がしたいようにしてくれていいよ」
 彼女はしばらく考えこんでから、「では、おじいさまが作る蝋燭に絵が描きとうございます。わたしに蝋燭作りを一から覚えさせるのは、きっと骨が折れるでしょう。ですが絵なら、きっとわたしにも描けると思うのです」
 それなら、と老翁は早速、作り終えた蝋燭をあやめに手渡し、老媼に筆を持ってくるよう告げた。
 あやめの描く絵は、それはそれは秀作だった。誰から聞いたわけでも、習ったわけでもないのに、巧みに線を描き、その一つ一つはさながら水底を漂う海藻のようで、それを見て心を奪われぬものはいなかった。
 あやめの描いた絵蝋燭を求めて、その店に足を運ぶ客は増え、まことしやかに語られる噂まで流れ始めた。「この絵蝋燭を宮に灯すと、海で事故に遭うことはない」と。
「海の神様を祀ったお宮だもの。これだけ綺麗な蝋燭を供えたら、神様もきっと喜んでくださるはずだろう」
「やはりお前は、わしらにとって、神様がくださった贈り物だよ」
 絵蝋燭の噂は遠くの村にまで伝わり、山を越えて安全祈願のために買い求めに来る漁師も増えた。中には「この絵を描いた娘に会わせてほしい」と頼むものも少なくなかったが、「うちの娘は、大層な恥ずかしがりやで」と老媼は断っていた。絵描きの娘が人魚であるということは、老翁と老媼以外の間では、ずっと知られていなかった。
 店先に並ぶ長蛇の列に応えるために、老翁は寝食も惜しんで蝋燭を作り続けた。白く、滑らかで、むらの欠片も見つからない蝋燭に、あやめが丹精な絵を描いていく。

 ひとつ、ぬりてはおやのため

 いつしか、蝋燭を塗っているあやめの頭の中で誰かが囁き始めた。

 ふたつ、ぬりてはうみのため

 それでもあやめは絵を描くことをやめようとは、露ほどにも思わなかった。「こんな、人間並みでない自分をも、よく育てて、可愛がってくださった恩を忘れてはならない」。夜な夜な彼女はそう呟いた。頭の中の声も、手の痛みも気にはならなかった。これが自分にできる一番の恩返しだと信じていたから。

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