ある日、エマはパンを買いにいつもの店に入り、店番をしていたベッカーのおかみさんに声をかけた。
「来る度に新しい商品が増えているわね」
「あの人ったら、何かが降りてきたみたいに新商品を思いついてね」ベッカーのおかみさんは、満更でもない顔つきになった。「新しいお客さんにも来てもらえるように宣伝やサービスも始めて。一時は店じまいかと眠れぬ日々があったなんて信じられ……」
「やあ」ベッカーのおかみさんが言い終わらないうちに、厨房から主人が顔を出した。「ハンスは元気かい?」
「おかげさまで。うちの人も何かに憑かれたように斬新な靴を作り出して……」
「おいおい、うちの人もって、男は皆ひとくくりかい」はにかむエマを遮って、ベッカーが首の後ろを掻きながら、からかうように言った。
「そういう意味じゃ……」
「まあ、いいさ。男を動かしたかったら、ぎゃあぎゃあせっついちゃだめだ。ちゃんと考えてるんだから」ベッカーは妻の方をちらりと見て片目をつぶってみせた。
まだほんのりと温かいパンを抱えて、エマは軽い足取りで夫のもとに向かった。焼き立てのパンの匂いに心まで温まる。
「ただいま。すぐに食事の支度をするわね」
「おれも手伝おう」
「あなたは座っていて。夜中、仕事で疲れているでしょ」
ハンスは自分を信じてくれている妻への後ろめたさも、すでに感じなくなっていた。楽して稼いで何が悪い。神様からの贈り物はありがたくちょうだいするものさ――もはやハンスの心に罪悪感はなかった。
その晩、エマが夜中に水を飲みに部屋から出たところ、工房から灯りがちらちら揺れているのが目に入った。夫はベッドで寝ていたのに――不思議に思ったエマが戸の隙間から工房の中をそっと覗いてみると、壁に映し出された二つの影がゆらゆらと動いていた。エマはぎょっとして後退りした。夫の名前を呼ぼうとしたが、恐怖で声が出ない。二つの影がこちらを振り向いた瞬間、後ろから肩をつかまれた。
「何をしているんだ」
エマがびっくりして振り返ると、ハンスが怒ったような顔をして立っていた。
「あなた、中に何かが……」