小説

『空の銛』清水その字(ハーマン・メルヴィル『白鯨』)

「あいつは太平洋へ向かっていた。故郷へ帰りたいんだと思う。放っておいた方がいいよ」
「……そうかもね」
 ふと息を吐き、アキエさんは椅子から立ち上がった。『白鯨』を手にして。
「どの道、今日で最後にしようって思いながら寝たから。……言うことを聞いておくわ。スターバック」
 僕を_副船長の名で呼び、彼女は背を向けて歩き出す。慌てて参考書をカバンへ詰め込み、後を追った。
 エイハブ船長は白鯨を倒せなかった。彼は憎しみに駆られ、自分を諌める副船長スターバックの言葉に耳を貸さず、白鯨を追った。結果、大勢の乗組員たちを復讐の道連れにし、海の藻屑となったのである。秋水もそうだ。テスト飛行に失敗してパイロットは死に、結局終戦までに完成することはなかった。あの夢は幻の戦いだったのだ。
 返却します。短い言葉と共に、アキエさんは『白鯨』をカウンターへ放り出す。眠る前に結末までたどり着いたのだろう。だから、あの行動だったのだろうか。
「喫茶店でも行かない?」
 図書室から出た彼女に追いつき、後ろ姿に声をかける。
「おごるよ」
「当たり前!」
 振り向くなり、少し赤くなった右頰を指差してアキエさんは言う。怒ったような口調だったが、笑っていた。くるりと向き直り、軽い足取りで歩いていく。何かが吹っ切れたようにも見えた。エイハブ船長の戦いは終わったのだ。
 校舎から出ると、夕焼け空に飛行機雲が伸びていた。東へ向かって。

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