小説

『空の銛』清水その字(ハーマン・メルヴィル『白鯨』)

「上がれ」
 念じつつ、ゆっくり操縦桿を引く。翼が揚力を得て浮き上がると、胴体から車輪が外れた。秋水は普通の飛行機のように車輪を収納するスペースがなく、離陸する際地上に置き捨てるのだ。
 完全に地面と訣別した機体が、ロケットエンジンの力でぐんぐん上昇していく。重力に逆らい、青空目掛けて矢のように。圧力に耐えながら、じっと前方を見つめる。アキエさんの秋水がずっと前を飛んでおり、エンジンの火が小さく光っていた。遠く見えていた雲が次第に近づき、ついには飛び越してしまう。今まで味わったことのないスリルだった。操縦席は狭く、酸素マスクは息苦しい。どんどん寒くなっていく。しかし爽快だ。
 地上はどう見えるだろう。後ろをふり向こうとしたが、そのとき視界に銀色の何かが光った。遥か上空に何かが、ぽつっと飛んでいる。前を飛ぶアキエさんは緩やかなカーブを描いて、そちらに機首を向けた。あれがBー29、アキエさんが狙う白鯨か。彼女が言っていたように小さく見えたが、秋水の速度が速いのでどんどん接近し、視界の中で大きくなっていく。やがて翼に四つのプロペラが見えた。
「そうだ、機関砲を!」
 慌てて機関砲の装填スイッチを押し込み、照準器のスイッチを入れる。ガラスのついたてに光の照準線が映し出された。
 機体の周囲をオレンジ色の光が通り過ぎていく。相手が撃ってきたのだ。こちらの速度が速すぎるのか、狙いは正確ではない。だが、ある心配が頭をよぎった。
「これ、本当に夢なのか?」
 酸素マスクのゴム臭さ、轟く爆音、体にかかる圧力。そしてアキエさんも言っていた、肌に突き刺さるような寒さ。この鮮明さは本当に夢なのだろうか。夢でなければ、あの巨大な飛行機にも人が乗っているはずだ。
 僕は一体、何をしようとしているのだろう……?
「うわっ!?」
 はっと気づいたときには、もう照準器から巨体がはみ出すくらいまで近づいていた。そして次の瞬間には、銀色の鯨が目の前まで迫る。

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