小説

『空の銛』清水その字(ハーマン・メルヴィル『白鯨』)

 アキエというその女子とは、その後よく図書室で出くわすようになった。僕は特に取り柄のない学生だが、読書の場所にはこだわっている。日当たりがよく、かといって暑くもまぶしくもない、窓際から絶妙な位置にある席を、自分の指定席にしていた。そこへいくと、すでに隣の席にアキエさんが座っている。僕が気にしていなかっただけで、実はいつもそこにいたらしい。
 そして今日も、その席で居眠りをしていた。本を開いたまま、机に突っ伏して。結った髪が腕にかかっている。僕が着席して本を開いたとき、彼女はむっくりと起き上がった。
「…_…惜しかったなぁ」
 目を覚ますなり、アキエさんはいつもそう言う。
「もうちょっとで撃ち落とせたのに」
 ため息を吐いて、読みかけの分厚い本をぱたりと閉じる。昼休みか放課後、いつもこの本を読みながら居眠りするのが彼女の日課らしい。正確には眠った後が大変なようだが。
「エンジン全開で、ガーッて上昇していったの。高度一万メートルまで三分くらい」
 僕に向かって、今日の夢の様子を語り始める。高度一万メートルのところまではいつも同じだ。
「寒かった?」
「超寒い。敵の飛行機の下側から、一気に近づいて……」
 話しながら、手で操縦桿を握っているような仕草をする。白くて小さな手が、見えない操縦桿やレバーを動かし、飛行機を操縦している。先ほどまで彼女は実際に空を飛んでいたのだ。夢の中で。
「大きかった?」
「最初は小さな点みたいに見えるんだけど、近づくとどんどん大きくなっていくのよ」
 質問に答えつつ、ぼんやりとした表情で本に目を落とす。
「鯨みたいにね」
 表紙に書かれた『白鯨』の二文字を、アキエさんは白い指でそっと撫でた。百年以上前にアメリカで書かれた長編小説である。巨大な鯨に片足を食いちぎられた船長の、壮絶な復讐劇だ。

1 2 3 4 5 6 7 8