小説

『谷中荘まで』柿沼雅美(『或る少女の死まで』室生犀星)

 「いやぁ苦しいなぁしかし。俺たちはこの5年間なんっにも変わらなかったってことだ。でもお前はよく言ってたじゃないか、ドストエフスキーは旅行中に茶も飲めなかったし、ヴェルレーヌは愛と餓えをさまよっていたし、ミレーは窮乏だったし、みなそういうものがあって酬いられるときを迎えたんだと。俺は、お前が何かで世にでたら、いやこれはもちろん良いことに限るけど、何か良いことをして世にでたら、俺はお前の地盤に座り込むから引き立ててくれよ」
 「よくそんな話憶えてるな、そういえばそんなことOに言っていたなぁ。だとしたら僕にはこれから幸福や喜びを指していける光があるということになるよ」
 僕が言うと、そうだろうそうだろう、そうだそうだ、とコップを片手にOが顔を赤くした。
 もう日付が変わるよ、と、おかみが言いにやってきて、僕は自分の財布から勘定全てを支払った。Oの腕を肩にまわしてよろめきながら店を出るとき、少女が僕に、どうかまた来てくださいね、と言った。
 あの女の子はどうなったぁ? と絡むように言うOに、だからそういうんじゃないって、ただ不思議な感覚だよ、と答え、通りでタクシーを停めた。Oは酔っていないふりで自分の住所を告げた。
 遠ざかるタクシーに軽く手を振り、手を下ろすと、全身の力が抜けていくような気がした。通り沿いの木々が風に揺れていて空気を吸い込むとやっと正しく呼吸をできたような気持ちになったし、見上げた月は欠けていくのではなくて満ちていくんだと思えた。
 すれ違う人みんなにキスをしてあげたくなるような思いで谷中荘に戻り、布団もない部屋に大の字になって目を閉じると、昨日までの憂鬱な蒼白い睡眠とはちがう、澄んだ梅酒のようなとろとろとした眠りにおちていった。

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