小説

『谷中荘まで』柿沼雅美(『或る少女の死まで』室生犀星)

 「誰か分からないからだろ。それに前は、俺より先に隣の子が出て追い返してくれた」
 それに、と言いかけて黙った。
 「隣にいた小学生の女の子のことか? なんだっけな名前は」
 少女はよくクマのキャラクターのTシャツを着ていたのを思い出した。
 「ふじこ」
 僕が言うと、そうだそうだ、とOが太ももを一回叩いた。
 「残念な話だよな」
 そう言うOに、僕はただ、うん、と返事をするしかない。
 当時僕が初めてこのアパートに来た日、ふじこは弟とアパートの前のコンクリートに石灰で絵を描いて遊んでいた。その光景が珍しく、下町だなぁ、とぼんやり見ていたら、ふじこが近寄ってきて、おじちゃんどうしたの、と聞いてきた。僕はまだ二十後半だったせいで、おじちゃんというのが自分を指していることが分からなかったが、お兄ちゃんだよ、と言うと、ふじこはすぐに、おにいちゃんなにしてるの、と言い直してくれた。
 今日からここに住むんだ、という僕に、ふじこはアパートのことを教えてくれた。トイレと風呂は付いているけれどお湯になるまで時間がかかること、夏場は蚊取り線香も効かないこと、郵便受けは開きづらいこと、ふじこの部屋は僕の隣なこと、そして母親に僕を紹介してくれた。母親は、小さい子供が二人もいるんで騒がしいでしょうけど叱ってやってくださいね、とほがらかに言った。なるほど、こういう母親だとこういう素直な子に育つのか、と思った。
 ふじこはたびたび弟と部屋を訪ねてくるようになり、壁に飾っていた友達の描いた絵を見て綺麗だとはしゃいだり、アイスキャンデーを持ってきてくれたりした。借金取りの怖い若者が来たら、僕が部屋にいても、おにいちゃんは留守よ、とドアの向こうで無邪気に言って追い返してくれた。
 昼間の僕にとって、ふじこは花のようだった。それ自体が色づいて明るく、咲くことに疑問を持たない、見ているものを飽きさせない子供だった。
 僕は普通の人間だった。普通に孤独だった。それが事件があり、少し普通でなくなって、大したことではないにしてもそれなりに落ち込んだ。まわりを見渡すと、普通の孤独を持ち合わせている普通の人々は、仕事やら結婚やらちょっとした決意で、それを埋めているようだった。その中で、僕はいつまでも僕を持て余していた。

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