小説

『谷中荘まで』柿沼雅美(『或る少女の死まで』室生犀星)

 「行くって?」
 オブラートに包んだようにぼんわりとした夕陽の空を見ながらOに聞いた。
 「S酒場だよ。まだあるんだ」
 「え、まだあるの?」
 驚いてOを見ると、Oはだったらどうした、という顔をしてうなづいた。
 「俺は全く行ってないけど店は変わらずあるよ」
 僕はどうしようか、と迷う。
 「腹減ったしちょうどいいわ、引っ越し祝いに俺がおごるから行こう。このまましゃべってても茶のひとつも出てきそうにねぇし」
 Oはハハッと大声で笑った。一人では行けないだろうという僕への察しと気遣いのような気もした。
 何年も経っているのに、昨日もそうしていたように慣れた手で部屋の鍵を閉め、古い木の匂いのたつ階段を降りた。靴箱には僕の他に住んでいるのだろう数人のスニーカーやサンダルが雑に置かれていた。
 S酒場は団子坂から少し根津に寄った、小路の中にガラス戸を立てこんだ建物から成っている。Oの言う通り、全然変わっていなかった。
 Oは躊躇する僕の背中を叩き、飲もう飲もう、と中へ入っていった。入ってすぐの鍵型のテーブルの正面には、酒瓶が並べてあり、そこにおかみが座っていた。おかみは記憶よりも髪が少なくなっていて、ノースリーブから見える腕がたるんでいた。
 最後にこの店に来たとき、少女の姿は見当たらず、おかみは少女が体調を崩して何週間も寝ている、と言っていた。たしかに少女は細すぎて白かった。あの子は死ぬんじゃないか、やめろよそんな話は、いやきっと死ぬんだよ、とOとしゃべりながら、どうしようもない胸の軋みを感じていた。そのうち少女の代わりに、元気だが感じの悪い女の子が手伝うようになり、僕はそれから来るのをやめたのだった。
 Oは勢いよくビールと日本酒をおかみに頼んだ。飲み物の値段の計算をせず頼もうとする姿に、あぁ僕たちはもう十分すぎるくらい大人なのだと急に思った。相変わらず料理らしいものがなくて、きゅうりやらかまぼこやら明太子やらを頼んだ。
 Oが今何をしているのかをほとんど知らないことに気づいたが、お互いにくだらないお笑い芸人の話や昔話をするのが心地よかった。

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