小説

『谷中荘まで』柿沼雅美(『或る少女の死まで』室生犀星)

 おかえりなさいまし、と声がして見上げると、髪が胸のあたりまでまっすぐさらりとかかった女の子がおしぼりを持ってきた。女の子、というよりも立派な女性の雰囲気を漂わせていた。この少女はあの少女だろうか、細すぎる記憶だった手足は今でも鶴を思わせ、おずおずと顔を覗くと、口元に笑みをたたえていた。微笑みは、心の一点を一瞬だけ熱くさせ、ゆっくりと染み渡るように全身を優しくさせた。間違いなくあの少女だと分かった。
 「ひさしぶり」
 僕が言うと、少女は、ふふっ、と息を漏らすように話した。
 「もう会えないんじゃないかと思ってました」
 少女の笑顔はあの頃と変わらない可憐さがあった。
 「故郷に帰ってしまって、何も言わずに」
 「いや、俺たちは君が死ぬんじゃないかと思ってさ。こいつは怖くなって逃げたんだよ」
 Oが割って入る。そんなことないよ、と僕はむりくり否定した。
 「昔の、お客との喧嘩で君にも迷惑をかけたし、体調も悪いとおかみさんに聞いていたから」
 僕が言うと、少女は、そうだったの、と僕を見た。
 「あの時は私も怖くて。頭を殴られているのを見て、あなたがどうにかなっちゃうんじゃないかと、それに助けを呼びにいくこともできませんでした」
 申し訳なさそうな少女に、そんなのは大したことじゃないさ、とOが言った。あの夜の少女は店の前の繁みの中に隠れて怖がっていた。痛む頭を抱えて僕が少女を見ると、瞳に深い悲しみが映っているようだった。
 「じゃあ体は大丈夫なんだね」
 おしぼりを載せていたお盆を胸に抱えて、少女はうなづいた。
 僕とOはしこたま飲んだ。大笑いしながら、他の客に迷惑になるかもしれないと思うほどに大きな声で5年分の人生を声に出して言い合った。
 時折少女がお酌をしに来てくれた。昔は疲れか睡眠不足かで眠りながらお酌をするようなことが多かったが、決してこぼすようなことはなかった。今夜も、決してこぼさず、ゆっくりと日本酒を注いだ。きっとあの頃は、夢を見ながらお酌をしてくれていたんだろうと思った。
 酔えば酔うほど酔わないふりをするOは、何か話しては自分の話にノドの奥を鳴らして笑った。

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